KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

「へ」の字の法則


家内に買ってもらい気に入って履き続けたアシックスの運動靴の左肩部分が破れ、裂け目から靴下の紋様が覗き見える。

若かりし頃ならいてもたってもいられず、そんな靴では恥ずかしくて外出などできるはずもなく、新品買うまで引きこもるという風になっていたかもしれない。

おっさんとなった今、あ、やぶれているね、と自然の一現象を淡々と目に留めるようにして、そしてそんなことすら忘れて通勤の行き帰りに履いたまま数日過ごす。

今日は仕事で神戸に出るので、何か見繕ってこよう。


ゾロメゾフスキー教授の見識についてはどれも例外なく首肯させられるものばかりであるが、とりわけ彼が見いだした帯同許容曲線「へ」の字の法則には強く感心させられる。

読んで字のごとく、「へ」の一文字に真理が凝縮されている。
もちろん屁とは関係ない。

人はともに過ごすと、最初のうちは「へ」の字の左部分のとおり親密度が増すが、しかしその継続は、「へ」の字の右部分が残酷に告げ知らせる通り悲惨な阿鼻叫喚を暗示する長く暗い無限の下り坂へとつながってゆく。

常時真横に突きつけられた他人の自我ほど目障りなものはなく、いずれ耐え難いものとなる。
オノマトペで表現すれば、デレデレべタベタの抱擁はいつしか右フック左フック飛び交うバシバシボコボコとなるということである。
上司部下、同僚、友人、親子、男女、、、どのような人間関係にもあてはまる。

他者を尊重するならば、ほどほど距離をおいて付き合うべきであると、どこまでも科学的なゾロメゾフスキー教授の研究成果が、普遍的な処世訓を導き出す。

であれば、すれ違い、というあり方が理想的ということになるだろう。
生き永らえる関係は必ず、すれ違いをその本質とするに違いない。

オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」という美しい物語は、貧しい夫妻の思惑がすれ違ったことで生まれた。
であればこその「賢者」なのである。
もし二人が密なコミュニケーションをしていたら、そんなものが欲しいのかと正面きって相手の腹を探り合い、その後殺意くすぶり続けるような後味悪いお話となってしまったことだろう。


神戸に同姓同名の人がいる。
かれこれ7、8年前に教えられた。

ケッタイな名前が兵庫県に二人も存在するわけだ。

遠くに浮かぶ似た惑星に関心を持つように、もう一人がどのような人物なのか、興味がわかないこともない。
そして、向こうもこちらを気にしているのだろうか、どこまで知っているのだろうかというまわりくどい想像もしてみる。

姜先生がしたように、同姓同名に呼びかけてアポまでとって酒を飲む、そこまでの積極性は持ち合わせていない。

出合うことがあるのならそのうち顔を合わせるのだろう。

第一、山田太郎や鈴木花子のように万単位で同姓同名が存在する名もあるわけであり、安物の占いではあるまいし同じ名前だからといって、何がどうということもないだろう。

その同姓同名が実はもう一人の私であり、私が二人実在し、三宮の乗り換えなどですれ違っていた、ということであれば身を乗り出すべき話かもしれない。

待ち合わせの場所でお互い顔を合わせ、もじもじしつつ、同時に真意を切り出すのだ。

「代わってくれないか」

そして、お互い堪えるしかないとの結論に頷き合い、お互いの肩を叩いて互いを励まし、悲哀にひたりつつ夕日をたもとにして別れるということになるのだろう。


虎の赤ちゃんをサルの檻に入れた途端、サル達は戦慄し、逃げ惑う。

サルに頭を冷やせと言っても聞く耳持たぬだろうが、力量の差を冷静に判断すれば、いくらサルでも赤ちゃん虎に負ける訳がない。

DNAレベルに刻印され、反射的な行動を規定するコードがあるのだろう。

例えば人間でも、道ばたで長いものが動けば、蛇かと身を硬直させる。

思考以前の反応だ。

生まれながらに虎のような気質を持ち合わせ、何をするでもないのに、居合わせただけで周囲が竦む、そんな動物的レベルの作用反作用のメカニズム、言い換えるとオーラといったものが実在するのであろう。

実際の動物の場合、ネコがトラに化けてなりきりことことは不可能でも、人間の場合は、うまく擬態すればオーラ感じさせる程度まで変身することは可能ではないだろうか。
都市化によってか人の本能はその天然性を薄め、人為の及ぶ領域となりつつあるかのように思える。

運動靴の裂け目から見えるおっさんの柄物の靴下でさえ、あの手この手を講じれば恋慕の対象とすることができるのではと思わせる程、この世は倒錯だらけ、人間様はいかれている。

いまはノラネコ呼ばわりされる少年もトラの仕草や立ち振る舞いを真似て訓練すれば、人に対してならば、トラのように見せる、ということはさほど困難なことには思えない。
逆に、トラなのにウサギちゃんになりきり周囲を欺く人もあるだろう。

しかし、そのようにコントロール可能な範囲では変幻自在にしても、そもそもの本質だけはごまかせない。

その人の本質は何なのであり、なぜそのように振る舞っているのだろう、と考える視点が大事だろう。

そうでないと、誰がなんのために何をやっているのか、全く訳が分からなくなる。
いっぱい食わされ、余計な人間不信に陥ることになる。

大半の人は、実のところ、本人自体も何がしたくて何をしているのか、分かっていないようなものなのである。

仮説にせよ自らそういった本質を他者のなかから炙り出さず後になってから、いっぱい食わされたと人のせいにしても始まらない。