KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

毒親が知っておくべきことについての考察


地元駅前のTSUTAYAがリニューアルのためしばらく閉店となり、新たに営業を開始したもののほどなくして今度はとうとう店じまいとなった。

ネット配信やDVDの宅配サービスが充実し店舗自体の必要性は薄らいだとは言え、現状では立地のいいTSUTAYAはどこも盛況のように見える。

地元駅前のTSUTAYAについては需要はあったはずなのに客足が伸びなかった。
これにははっきりとした理由があって、地元の人なら誰もが気づいている。

駅からどれほどひっきりなしに大量の潜在客が掃き出され続けようが、TSUTAYAと駅の間には、交通量多いロータリーが横たわる。

TSUTAYAに行くにはロータリーを横切るか、大回りして信号のない横断歩道を渡らねばならない。

大した労力ではないはずだが、このようなちょっとした億劫さが足を遠のかせる。

駅前で至便に映るが、実はそこは陸の孤島
駅からの陸路断たれた向こう岸まで車列を縫いまたは少し大回りしてまで足運ぶ人は少ない。


店舗の立地においては、人の流れの「順目」に着目しなければならない。

往来が終始絶えない賑やかな通りから一本それれば寂れた路地がひっそりと静まり返る。

物理的には川や高架道路や線路がそのような順目の流れを付け替える主要素となる。

人は物理的に隔てられた「川向こう」へはそうそう足を向けないということである。

その他、大きくは街の間の引力差や、小さくは人それぞれが有する感性のようなものが順目を生み出す要素となる。

例えば地元甲子園口なら、東に進めば大阪、西に進めば神戸へと通じるが、大阪と神戸では大阪の方が引力が強く、大阪方面への動きが順目となる。

それが日常的な心的慣習となって、どちらでも用が足りる場合にはたいていの場合大阪方面へ進むことになる。

感性については、どなたも心当たりあるだろう。
好んで歩く道がある一方、気の進まない道がある。
それらが集約化され、慣習化され、順目はますます順目となり、逆目はそのまま逆目に留まる。

最近、その陸の孤島にダイコクドラッグがオープンした。
駅前にて客寄せという橋渡しも欠かさない。
ダイコクドラッグなら逆目などなんのその、人を吸引できるかもしれない。


話を飛躍させれば、人においては「順目」ならぬ「順芽」という概念が人間を理解するうえで有用に機能するかもしれない。

各自の行き先を示唆する「順芽」を人はそれぞれ内に携え世に送り出されてくる。

「順芽」が包含する抽象的なイメージが物心つくころには芽吹いていくる。
原初の意識においておぼろ感知する四大元素みたいな大括りの根源的イメージが、次第に世と接点持ちながら微細に分化し具体的な姿を現し、自己イメージと役割の意識が明確になっていく。

誰であれ、託された順芽に導かれ、その人なりの道を進み、その人なりの成長を遂げていく。

そんな風に想像し、その人固有の方向性というものを見るようにすれば、他者が尊重でき、無闇に人を蔑んだりまたはやたらと追従したりすることもなくなるのではないだろうか。


親であれば尚更よほどの注意をもって、自らが「順目」を妨げるロータリーなどにならぬよう子の「方向性」を見出し、背をそっと押すような働きかけをすべきなのであろう。

昨今は、子が生まれ持ってきた「植木鉢」をひっくり返し、違う種に植え変え早く生えろ実をならせと尻たたく毒親なるものが巷間の耳目集めているという。

例えば全く勉強の素養がない子に対し、
自らは勉強など真面目にしたこともないのに、子に強いる。
または自らができたものだから当たり前だと、子に強いる。
要は親の見栄と面子があるだけの話だ。

どうでもいいような余生送る輩の見栄と面子のだしに使われる子にすれば生まれてきた甲斐もないよというくらいに息苦しいことであろう。
耐えるしかない。
明けない夜はないのだから。


外食が続いた後の手料理はことのほか美味しい。
キッチンカウンター越し家内を相手に先日耳にし印象に残った話を取り上げる。
入管業務を専らにする知人から聞いた話だ。

その女性は日本人男性に見初められ結婚し向こうでの生活の後来日した。
しばらくは平穏な結婚生活を甘受できたが、ある日突然男は他に女を作って出て行ってしまった。
まだ小学生である一人娘の面倒も男は見るつもりがないようだ。

母子取り残されたような状態となったが、母は踏ん張った。

母は雑貨販売を生業とし何とか生計を維持できるまでになった。
そして、娘を塾に通わせた。
町の個人塾などではなく、関西最優秀者が集まる大手名門塾だ。

月謝は半端ではない。
それを最優先に工面しつつ、娘の勉強の環境を整える。

母はきっかけだけ作れば良かった。

もともとが聡明な娘であった。
周囲が絶好のお手本だらけの塾である。
どうすればいいか見よう見まねで試行錯誤し、すぐに自らの勉強のスタイルを確立した。


塾が終われば、どれだけ疲れていてもその日のうちに宿題を終える。
翌朝は必ず6時に起きる。
母は娘を起こす必要などない。
娘は自分で起き、さっさと塾のテスト勉強に取り掛かる。
それら終えてから学校に通う。

母を心配させまいと泣き言を漏らすことがない。

幼少期を彼の国で過ごしたので社会科の勉強に困難を感じるけれど、それでも成績は超優秀だ。

将来は世界に貢献できる人になりたいと娘は胸を膨らませ、嬉々としてハードな勉強に邁進する。


この母子が、娘が行きたいと望む学校の見学に出かけたという。
外から様子をうかがうだけでも雰囲気は分かる。
それだけで十分だった。

その母子の存在に気付いた先生がいた。
学校をじっと見ているその母子に先生が声をかけてくれた。
どうぞ、中をご案内しますよ。

訛りのある日本語でいったんは固辞したものの、娘の目が輝いている。
母は好意に甘えることにした。

たいてい誰でもそうなるように、その母子も西大和のことが大好きになった。
必ずそこに入りたい。
娘の頑張りに更に拍車がかかる。


テレビを見ていると「中国人は嫌い、韓国人も嫌い」といった偏頗で醜悪な信条を臆面もなく披露する芸人風知識人がいたので、二度見するほど驚き不快となった。

そのように突き出た発言をしないと他と差別化出来ず、だからやむなく演じざるをえない芸風のようなものなのであろうが、公共の電波で流せば、そんな邪教の教えに感染するか弱い頭の人も少なくないであろう。

考えずとも、嫌いになれるわけがない善き中国人や好感覚えるほどに素晴らしい韓国人がいることを私達は知っている。

「中国人は嫌い、韓国人も嫌い」、頭がどこまでも弱く、わがままし放題のお姫様でも、こうまで乱暴な断言は躊躇うであろう。

そんな言葉が唖然とされることも、二度見されることもなくまかり通るほどに日本は未成熟な国であっただろうか。

取るに足りないほどに無価値なオッサンの無思慮な言葉などから遥かに遠く、遥か高みにその少女があることを祈りたい。


雨音はショパンの調べどころか、とんでもないどんちゃんさわぎとも言うべき豪雨のなか、映画を観る。
「ぼくのピアノコンチェルト」。
スイス映画である。

エンターテイメント性があって十分に面白いが、底流のテーマはとても深い。
天才少年ヴィトスが主人公である。

頭脳明晰で知能指数は180、ピアノについては神の子レベル。

母はヴィトスが自慢でならない。
しかしヴィトスにはそれが息苦しい。

ネタバレになる。
ヴィトスは家族に対し一芝居うつ。

転落事故を装い、転落のショックで普通の子レベルになったふりをする。

ピアノは稚戯程度、医師の診断によれば知能指数は120。

母はがっくりとうなだれ涙を流す。
医師が言う。
何もかも普通で健康なのに、なぜ泣くことがあるのですか。

母のエゴは傷つき、そして家庭の揉め事が増えていく。

ヴィトスには優しい祖父がいた。
折々、祖父を訪れそこで過ごす。
祖父が心の防波堤になった。

祖父のもと、祖父という豊かな土壌のもと、ヴィトスはのびのび自らを育み深めることができた。

映画のラスト、ヴィトスは自らの道を迷うことなく選択する。
祖父があったからこそ、彼は自分の道へと真っ直ぐ進むことができたのだ。

ハッピーエンドで終わる感動のラストである。