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KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

思考の活動域はモノよりコトにあった方がいい。


雨が降っているというよりは天然のミストの中にいるような小糠雨の午後、頬に当たる微細な水滴が心地いい。
傘は差さず尼崎へ向かう。
仕事の関係で某所にて宗教職の方と対面した。

仕事にまつわる主だった話が終わって雑談となる。
合流者がやってくるまで半時間はある。
初対面だが折角なのであれこれ住職から話を伺ってこの30分ほどを益あるものとしたいところだ。

例えば昨今の核家族化の影響で市井の人々の間で宗教観といったものはどのように変化しているのか。
例えば福井県だと毎月檀家の家にお坊さんが訪れてお経を上げて講話する、そのような風習が福井の子供たちの良好な学業成績に関係しているというが、日常的に檀家を訪問するといった密接な交流はここらでもあったりするものなのか。

しかし、私の頭を巡った興味関心が発せられるいとまはなかった。

ありきたりな気象天候の話のあと、住職はヴィトンについて熱心に話し始めた。
ほんまもんとニセもんの見分け方、ご存知でっか。
この金具の金属は鉄55という種類でできていて、この鉄55はヴィトンが買い占めているので入手でけへん。
実際にヴィトンに携わった職人に作らせても、この部分だけは鉄54や鉄56になるので、モノホンにはなりまへんのや。

カバンやら時計やらブランドの話が続く。

住職の目の前にいる私がブランドに関心あるように見えるはずがない。
なにせそのとき私が身につけていた時計はGショック
うちの子供とお揃いのものだ。

住職のもっぱらの関心領域がブランドにあって、そのような話が大好きなので相手がだれであろうと機会あれば触れて回るということなのであろう。

その住職が仏前にて経を上げる様子を想像してみる。
なんみょうほうれんびとんぐっちしゃねるえるめすなむあみだーぷらぷらだー。

魂は安らげそうにない。


住職の話は続く。
日本人、韓国人、それに最近では中国人、ここらはみんなブランド好きでんな。

東アジア文化の極端な偶像崇拝性について話が展開されるのかと一瞬思うがそうではなかった。
イミテーションすら厭わない日本人、韓国人、中国人のブランド愛の話となっていく。

偽物づくりの技術においてこの近接する三国がしのぎを削り、ついには本家を追い抜かすほどのレベルに達し、偽物の方が本物より値段が三倍安くしかし三倍丈夫で品質がいいという逆転現象が起こっているという。

「賢い人」は普段使いで偽物を上手に使いまっせ。
でも、ほんまモンの金無垢のロレックスつけて飲み屋とか行けば、偽物つけてるのが誰かすぐに分かりますねん。
金無垢を前にしたら、偽物つけた人は、その腕を無意識に隠しますんや。

話を伺いつつ、ブランド愛好家の間で繰り広げられる、水面下での小競り合いのような絵柄を思い浮かべてみる。
どう考えても滑稽にしか見えない。

人が何をどうしようと自由ではあるが自分の息子には間違いがないよう念のためブランドモノについて話しておかねばならないだろう。


目くそ鼻くそ理論というのは時に有用で、例えばブランド好きの中国人や韓国人の様子を目にすれば、そこに潜む「醜悪性」のようなものが日本人には感知できるはずであるが、海外で過ごした経験のある人であればピンとくるように、客観的に見れば日本人も同類であって、つまりは目くそ鼻くそ、同類相憐れむの図でしかない。

自我の強度がそれほどでもないからなのか、東アジアの民においては、「人は人」と自他を分けて考える思考よりも、人と較べて自らを認知するような分際意識が際立っているように思える。

住む家の大きさや収入や資産、学歴、職業といったもので人と較べ、さらには持ち物や乗っているクルマでも較べて一喜一憂する。
自他を突き合わせることを欠いては落ち着かない人心が相当に多いというのは、ある種の国家的未成熟性の現れなのであろう。


持ち物が自尊と関係づけられると、その結びつきは強固となりがちで、意識の向く領域がモノばかりという状態になりかねない。

思考の活動域において人は最適な在り方を求めてしまうので、モノについて過剰なほどに考えてしまうということになる。

最適を追求できる財力があれば、伸びやかそこで思いのままできるであろうが、通常はそんなお金はないはずなので、理想と現実のギャップのなか神経症的な症状を来す場合まであり得るだろう。

どうでもいい、と内なる知性は告げ知らせてくれるが、心は囚われてしまって齟齬が大きくなっていく。

思い通りにならないことで内面に生じる過熱を抱えることは、しんどいことであろう。
多かれ少なかれ物欲の従者は、ある種のジレンマを慢性的に身中に宿すことになる。


思考の活動域は、モノよりコトにあった方がいい。

以前も書いたが、コトがモノの上位概念である。
コトがあって、そこから具体的なモノが導き出されるという順序である。
コトの方こそ価値の源泉に近いので、末端のモノに目を注ぐよりは、コトに目を向けるほうが、窮屈さがなく風通しがいい。

思考の活動域がどこにあるのか、と探ることは相手を知るための重要な切り口となる。

さほど楽しいはずもないだろうに、モノについてばかり話す人には注意した方がいい。

モノへの執着への背景には、コトにおいて行き詰まってしまった無自覚な閉塞のようなものがあるのかもしれず、閉塞は、いつだってお門違いな方向に人を進ませ、最悪の場合には暴発だってしかねない。


私の身近なところを見渡せば、ブランドものにこだわる人は極小である。
たいていは無頓着。
例えば33期の友人らの奥さんでブランドものに目がない、といった話を聞いたことがないし、実際目にしたこともない。
分不相応なことの空虚とこっ恥ずかしさについて弁える知性がちゃんと備わっているのだろう。

印象に残った話がある。
33期のある院長が、誕生日に何が欲しいか奥さんに聞いてみた。
バックだという。
奥さんは日頃モノに構わない性格なので、よほど欲しいバックなのだろう。
値段を聞くと7万円。

つまり、これを一つの基準として捉え比例的に考えれば、70万円のバッグを買うなら、月収数千万円の甲斐性が必要ということになり、月収数十万円では、7千円のバッグが身の程だということになる。

月収数千万円の人など、これまた極小。
だから、君の奥さんが、70万円のバッグを誕生日に気軽に欲しがったりしたら、少し頭がおかしいのではと疑った方がいい。

もちろん、値段など不問という域の富者であれば70万円くらいポンと出せるだろうし、世間のなか生きているのであるから世間体としてひとつやふたつ買うようなことも余裕あれば躊躇うことではないだろうが、それでも、人としてそこに生じる違和感に無感覚になってはならないだろう。

人生は長く、何代にも渡る。
カバンに70万円使うことに対し何も痛みを感じないほど人間思い上がっていいものではないのだと思う。
お金については、使わない、も含めて他にいくらでも有用な使い道があるものだろう。

住職の話を聞いて、そう再認識する一日となった。

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