KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

その光景を映画のシーンのように眺めてみると


シルバーウィークまであとすこし、カウントダウンに入って家内の手も借りねばならぬほど忙しい。

終日出ずっぱりであったが夕刻迫る時間、ようやく尼崎にて最終の用事を終えることができた。
阪神電車に乗って事務所に戻る。

とある駅で二人組の女子高生が乗ってくる。
小柄と大柄のペア。

大柄の方は舟に盛ったお好み焼きを手に抱えている。
駅前の屋台などで買ったものであろう、ホカホカ感ともなってソースの匂いが車両に漂う。

大柄が腰掛けた隣に座る女性は即座立ち上がってスタスタ歩き、匂いの圏外へと移っていった。
お好み焼きを呑み込むように食らいつつ大柄は去っていく女性の背を睨みつけている。
自分が忌避されたと十分に理解しているようであった。

目に凄みがある。
どこかの部族、呪術持つグレートマザーのひと睨みはこのようなものだろう。

ここは阪神電車。
これまで仕事で数年越し阪神電車に何度も乗っている。
のべにして数人の美人を見かけた。
阪急電車であればひとつの車両に美人が数人いるなど当たり前であるから、何らかの非均衡を知るには電車を乗り比べるのが一番てっとり早い。

個性的な人については、阪神電車の寡占状態である。

その阪神電車の中においてさえ、この大柄女子高生は際立っている。
眉をひそめ異形なものでも観るような視線が大柄に集まるが、どこまでも彼女はマイペース。

ワニが獲物を丸呑みするみたい、お好み焼きの姿形は瞬く間になくなった。


電車が淀川に差し掛かり、空が大きく広がる。
窓から入る光量が増し、車内の景色が色鮮やかとなる。
水流のゆるやかさと相まって時間がゆっくりと流れ始める。

柔道着を着た少年の二人組が上半身を反転させて窓外の風景に見入っている。

ふと、見方を変えてみる。
この場面を映画の一シーンだと思って見てみよう。
名匠が手がける美的観念の詰まった映像なのだと見方を転じれば受ける印象は様変わりする。

私も含め車内の乗客はすべて、非映画的な日常のアングルで眼前の絵を捉えている。
大柄な女子高生に対し、一体何なのだと呆れた眼差しを送っている。
なかには見下し加虐的な視線をぶつけている者もあるだろう。

そして、これが昨今の日本のノーマルな視線なのであろうとも思う。
断罪視線とでも言うべきであろうか。

もし、この場面を映画の一シーンのようなものとして捉え直すことができれば、おそらく乗客らの目つきの鋭さは和らぎ、もっと広く全体について、つまり、視線をぶつけるボールの的みたいに彼女を見るのではなく、我々同様に世界のなかに置かれた一人の登場人物なのであると見ることができるようになるに違いない。

彼女は彼女自身のドラマのなかに属し、いま急いで腹ごしらえし、バイトにでも行くのであろうか、何か格闘技の練習にでも行くのだろうか、何を目指し、どのような人たちと関わり、家族はどのようであるか、とふんわり膨らみある見方ができるようになる。

そう言えばペアの一対の小柄ちゃんはさっきから携帯ばかりいじくっているが、カラダの向きは大柄ちゃんに寄っていて彼女への信頼感がそこから読み取れる。

映画的に見ることで、他者についてそのハッピーエンドを願うような気持ちとなってくる。


先日、映画「白バラの祈り」を見た。
ナチス政権を批判する文書をまいたかどで医学生ゾフィーらが処刑される。
実話に基づく話だ。

取り調べの過程で年若きゾフィーはナチス政権の愚かしさを批判する。
スターリングラードで数十万の兵士が犬死にしたこと、ユダヤ人を虐殺していること、精神疾患者や障害者を殺害していること。

ヒトラーに仕える者らがその職責を忠実に遂行するなか、その愚かしさを訴えるなど死を覚悟せねばできないことである。
なんと勇気のある者たちだったのだろう。

ヒトラーの下僕はドイツは正しいことをしていると信じている。

この戦争はドイツが再び占領されぬために行っているものであるから正しい。
鉄道を敷き一網打尽捉えたユダヤ人を輸送し効率よくガス室で殺害し死骸を再生利用するといったことも、ユダヤ人は劣って有害な人種なのだから正しいことである。
精神疾患者や障害者についてはそもそも働けず世に貢献できない悪しき種でありそれを根絶やしにするのは人類の益になる、だから正しい。

そのような論理が行き渡って、誰も懐疑せず、真面目に過剰に尽力する。

医者は自らすすんでその職責を果たし処刑すべき者らを殺害し解剖し、判事らは傍聴者に自らの忠実な仕事ぶりを大アピールするように大張り切りで政権に背くものを断罪していく。
追いやられる者らの内面や有する世界が顧慮されることなど一切ない。

役割の枷にはめられ、見方が硬直化すれば人間は誰だってそのようになるのだろう。

ゾフィーらは許しを乞うなど一切せず毅然とし、判決が下された直後にギロチンで断首された。


物事の見え方は、一種の虚構のようなものなのであろう。

眼前のありのままがそのまま目に入るのではなく、意味付けがなされ解釈が行われる。
そのプロセスを自身で担っているつもりでも、社会的・時代的な色眼鏡が介在することは避けがたい。

だからこそ、目に映る像を相対化し比較検討できるよういろいろな見方を自ら学び習得することが大切なのだと言えるのはないだろうか。

為政者や商売人などにとっては思惑どおりの色眼鏡で物事を見てくれる人の多いほうが扱いやすく都合いい話だろうし、それに合わせるほうが楽だと思う人も少なくないだろう。

しかし、そう易々と思い通りにされてはたまらないと思う気概の人物にとっては、操られていたと後で舌出し知らされることほど悔しく虚しいものはないはずで、ならば、日頃の心掛け、自分のこの目、自分の仕方で多様に見ようとする意志を持ち続けるしかないということになる。

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