KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

中学受験、的を広げる余裕


上には上がいて、上がいれば下がいる。
どこの学校でも同じであり、いわゆる最難関と言えども例外ではない。

入学後たちまちにして上下に開く。
この二極化の度合いは最難関である方が顕著かもしれない。

一体、あの合格の歓喜は何だったのだ。
春過ぎて露わとなる子の無力に講じる手立てはない。
諭そうが小突こうが怒鳴ろうが親がする打ち手はことごとく空転する。
まさかの焦燥と消沈に親は気がふさぐばかりとなる。

出鼻挫かれる下位層を括るキーワドとしては、バーンアウト以外に思い浮かばない。

まさかの不合格はあっても、まぐれで突破できる入試のレベルではない。
もとから劣る者であるはずがない。

お膳立てよく受験勉強に最適化した生活を過ごし、最期の胸突き八丁を競走馬のように尻叩かれ前傾姿勢で駆け抜けた彼らは、はや10代序盤で力尽き燃え尽きたのだろうか。
入試前の切羽詰まった煩悶はその前兆だったのかもしれない。

マッチングよく環境に溶け込み意気揚々と中学生活を送る者らを横目に、意欲はいつまでたっても湧かず何もする気がせず上の空な状態が続く。
勉強、と考えただけで気が滅入って憂いに包まれる。
そしてその間もハイレベルかつ猛スピードで授業は進む。

野球解説者である田淵幸一氏はかつて言った。
デッドボールを頭部に受ける際、ボールがはっきり見えてしまった打者はもう怖くて打席で踏み込めなくなる。
目をつぶってしまって何が起きたのか分からないままであった方が再起しやすい。

彼ら少年らは、意に沿わない勉強によって分厚い虚無のようなものを「見て」しまったのかもしれない。
あんなつらいことは金輪際懲り懲りだと腰が引けてしまって、もとに戻れない。

事態がここに及べば叱咤激励も意味を成さないであろう。
気が済むまで心身休ませる以外にない。

そもそも年端もいかぬ子に、本人以外の動機によってハードなデスクワークを強いるなど自然の摂理に反したことだろう。
息せき切ってのべつ幕なし走り回っているのが、子の本分であるに違いない。

そして、無力化を見せる層があれば、その一方で、勢い得て一気に伸び続ける軍勢もある。

受験勉強は助走程度の力の入れようであったという層である。
まだまだこれから、と意欲をますます全開としていく男子らには凄みさえ漂っていることであろう。

それら大勢を占める上りのベクトルに、下りのベクトルが取り囲まれ机を並べることになる。


関西には灘をはじめ、東大寺、甲陽といった凄まじいような超難関校が顔を揃えている。
中学受験生であれば誰もが一度は目指し心に描く学校であろう。

しかし、入試は一発勝負。
どれだけ努力を重ねようが、どれだけ優秀であろうが、まさかの事態が生じ得る。

難関の極みである。
絶対大丈夫と太鼓判押された歴戦の猛者でも呆気無く落ちることがある。
灘や甲陽、東大寺の入試であれば何ら不思議なことではない。

それだけでなく、灘や甲陽に受かるような優秀な子が西大和に落ちたり、東大寺に受かるような子が星光を落ちるといったことまであってそれもまた何ら珍しいことではない。

つまり、入試は一発勝負。
当落はあくまで不確定であり、上位校であろうが下位校であろうが引導渡されるリスクは常に遍在していて油断も隙もあったものではないということである。

南アフリカほど戦力安泰な少年はめったにおらず、その南アフリカでさえ日本に敗れることがある。
塾は体面があるので声高にしないが、そのような番狂わせが丁か半かの大味な確率で起こり得るのが最難関を巡る中学入試だと言えるだろう。

だから、セーフティーネット的な試験日を設定している西大和の存在は多く受験生にとって有り難いことであるはずだ。

中学入試は単なる一次予選の通過点。
それで何かが決定的となる訳もなく第一志望について成否の命運分かれた子らはまた相まみえることになる。
その機会は何度でも訪れる。

この域において学校名でその両者の力が白黒明確に判定できるものではないことはサルでも理解できることだろう。
本願果たした者より捲土重来を期す者の方が手強いのは世の理である。


関西で突出するそれら3校のなか人づて聞く限り甲陽が最も好ましいように思える。

年端行かない中学生をごく当たり前に中学生として扱う教育に学校の見識と責任感が表れている。
合格し浮かれはしゃぐ間もなく生徒に負荷かけ勉強に向かわせる在り方は昔ながらの男性的な愛情表現に違いない。
そこで生徒は自主的にハードな勉強に取り組む生活リズムのようなものを刻み込まれる。
それが果たせて後、一人の個性として高校に迎え入れられる。

甲陽が目指し育成する人物像が窺えようというものだ。

塾の成績は申し分ないがうちの息子は天才ではない。
達見の友人はそう判断し子の受験にあたって灘ではなく甲陽を選択したが甲陽も十分に天才の部類であることは言うに及ばないことであろう。

対して、関西最高峰の灘や小さな京大を標榜する東大寺については学校のコミットは極小であるようだ。
このレベルの際立って優秀な子らであれば、束ねてコントロールするより目の届く範囲で放っておくのも賢明なように思える。
そもそも、先生よりはるかに賢い生徒らであろうから、教えるも何も、競い合う場として機能すればそれで十分ということであろう。

しかし、マチュアな子であればともかく自主性や自由を尊重するなど時期尚早と懸念されるような未熟な子を抱える親であればやや不安を感じるかもしれない。


かつてと異なり東大と並び立つ京大ではなくなってしまった。
関西の誇りでもあった京都大学が一地方大学と化しつつある。
それほどに東京一極集中の流れは加速し続け関西の地盤沈下が止まらない。
なんと嘆かわしいことであろうか。

そうであるから、単に京大に行くだけなら最難関と呼ばれる学校で真面目に過ごせば足りる。
しかし、東大や医学部を目指すのであれば話は違ってくる。

綺羅星のごとく数あった名門大学が軒並み易化し、腕に覚えある強者が狙い定める大学が一極集中の様相を帯びてくる。
その水準での大学入試を念頭に置くのであれば、専門的に入試研究をしそのノウハウを持つ予備校に頼るのが賢明だろう。

熱心な指導があって予備校いらずと評判の西大和においては現職の教師陣らが予備校顔負けの牽引力で生徒を引っ張り、その面倒見も噂以上の域であるが、高層圏とも言える最上位層については予備校の力も受け容れようと合理的な考え方をしているように見える。塾に一任するような塾頼みとは異なり、塾の長所をも内在化し生徒に有用であろうとする姿勢には生徒本位の徹底ぶりがうかがえる。

大盤振る舞いで予算を割き中一から徹底的に英語に注力させる成果があって、英語に関し西大和は他校の追随を許さない。
目を見張るべきものがある。
英語で他校は西大和に敵わない。
地道積み重ねる勉強が必要な英語においての成果は西大和の教育の真髄を象徴している。
それに加えて、オープンマインドで予備校的な力も取り入れていこうとしているのであるから、大学入試ではたいへんに強い集団であリ続けることは間違いないであろう。

その西大和も含め、どこの学校であろうと、一頭地抜けたレベルで競い合うのであれば、予備校という舞台で学校横断的に色とりどり顔を合わせプロの指導のもと切磋琢磨することになる。


勉強し頭ひとつで食べていくことを目指すのであれば中途半端な最適化では用をなさない。
将来に対し危機感あればあるほど突き詰める。

だから医学部が難化する。
サラーマンは会社を辞めれば多くの場合ただの人だが、医者は勤め先を辞めても医者のまま。

知識労働者数あるうち最強の成功者が医者であるとみなされる世である。
まるで隣国の韓国のよう。
頑張れば誰にでも手が届きそうであるからその競争は過熱する。

どのような厳しい時代状況が訪れようと子にはサバイバルしてもらいたい。
それには手に職があった方がいい。
手に職といっても何でもいい訳ではない。
できれば他者に尊重される在り方をしてもらいたい。

親は何かそのような確かなものを子に掴んでもらいたいと願い学校へと塾へと送り出す。


もちろん現実は生易しくなく、いくら最適化しようと勉強だけの人間がでかい顔できる場所はない。
お勉強は必要条件に過ぎず十分条件ではない。

職業的特性とも言うべき、任務が要求する何か強みを身につける必要がある。

うちの事務所のツバメ君には驚いた。
役所に相談に出かけた際、担当者と意気投合しちょうど終業の時間であったので、一緒に駅まで帰ったという。
事ほど左様に、彼のコミュニケーションは深度があって誰彼となく良好に打ち解けてくる。
年季積むはずの私など全く及ばない。

何か胸襟を開いてもらうような人柄、言外の何かが身についているとしか言えず、これは仕事する上で必殺技に値する芸当である。
天賦の才でもあるのだろうが鍛え培われてきたものでもあるように思える。

学校、塾、部活、そしてプラスα。
先はまだまだ長い。

そろそろ中学受験においては志望校を確定する時期であろう。
目の前のゴールに向かって前傾姿勢になるだけでなく、余力保ち、その向こうにある良き未来まで虚心に見渡す視点もあった方がいいだろう。

ここの学校でなければならないといった背水の陣の肩越し、その流れの先にはもっといい学校があるのかもしれない。

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