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KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

母こそが縁の下の力持ち


朝4時過ぎ、炊事の始まった物音で目が覚める。
朝練のため二男が早く出る。
家内が二男より先に起き出し朝食の支度をし弁当を作る。

高校生の先輩が優しかったという理由で入った部活であったが、その姿を模範とし二男は部活三昧の日々を送っている。
朝に夕に連日練習に明け暮れている。

5時になる。
起こさずとも二男が自ら起きる。

それを見届け私は家を出る。
朝と昼の弁当を助手席に置き一路事務所へとクルマを走らせる。

このところは車内でMBSラジオの子守さんの朝からテンコモリを聴くのが習わしだ。

リスナーからの便りが読み上げられる。
子の朝練のため毎朝4時に起きて食事の支度をする母のことが紹介される。

各地各所、母こそが縁の下の力持ち。

「おれのバックに誰がおると思ってるねん」。
安物不良がするコケオドシの常套句である。

子らのバックには母が控えている。

不良のバックにいる虚像の誰かなどとは比較にならない。

いざとなれば、母は捨て身だ。
これに勝る者などあるはずがない。


振り返れば、母として凄まじい。

傍で目にし、それをさも当たり前に感じてきたが、手抜き常習の母もどきのズボラについて時折耳にすれば段違いでの最強を評価せざるを得ない。

そもそも腹にあったときからして別格の入れ込みようであった。
超音波画像に写るその存在に愛称をつけ持ち歩き、そしてしきり腹に話しかけてきた。

そこが原点で子育てはその延長線上にあった。

私は家族の存亡をかけて日夜仕事に明け暮れ家庭を顧みず、その欠落をすべて母である家内が埋めてきた。
補って余りある奮闘であった。

子育ては、安らいだ場面だけで構成されるのではない。
テキパキとした要領の良さが必要で、気働きも欠かせない重労働。
たとえば、長男の入浴を先に済ませ機関車トーマスに釘付けにしているその間隙を縫って二男を風呂に入れる。

昼夜息もつけない日々。
子を両脇に抱え家内は走り抜いた。
愛情たっぷりに。


決して教育ママではなかった。

ガリ勉なんてしょうもない。
スポーツができて自然に親しみ人望があって体躯逞しい男子になってほしい。
そうとだけ願う母であった。

だからオギャーとしか言わない頃から子らはプール教室に通って水につかり、体操教室に通ってカラダを転がし、物心ついた頃にはカブスカウトに入って野山を歩き、伊丹昆虫館の催しに数々参加し虫だけでなく多様な年齢層と交流し、科学館に通って星の名を覚え、フットサルでは強面の少年らに揉まれ、そして芦屋ラグビーでたっぷりとその心身を鍛え上げられることとなった。

等し並みには勉強させようと思う程度の家内ではあったが、私が提案し中学受験させることにした。

中学受験し一貫校に通う10代の方こそ、実は時間にゆとりがあって仲間と青春を謳歌できるし、趣味をはじめ様々な事柄を深めることができ、なおかつ相当なレベルの学力が余裕をもって自然と身につく。
そう私が主張し塾へ入れたのだった。

塾に通うからにはそのバックアップも怠らない家内であった。
弁当作りはもちろん、送迎が必要な場合も多々あって骨折りであったはずだが、一切手を抜かなかった。

ハッパかけずとも子らはそれなりに勉強に取り組み、それなりの地力を証し始めた。
そして、それなりの受験校を目指すが、しかし、中学受験は「それなり」といった譲歩で得られる安堵が存在しないという特異で非情な世界であった。
これはもう、経てみないかぎりは実感できないことであろう。


長い時間をかけた数々の細部が積み重なって覇気ある男子が一個生成される。

艷やか晴れた男子の面構えは、手取り足取りといったやり方では生まれない。
太陽だけのヌクヌクでは軟弱だ。
北風にもさらしてこその愛情。

ロッキーにとってのミッキーがそうであったように、良きセコンドはボクサーにとってコルクの鉄芯のような働きをする。
磁力が増してオーラのようなものを発生させる。

身にまとう光の源を辿れば、捨て身の援軍となった者が誰であったのかその面影が必ず浮かぶはずである。

そして子は自立し、一方、母は老いやがて世を去っていく。
頑強な男子という確かな痕跡を残せたのであれば、笑みたたえての辞世となるに違いない。

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