KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

威光のカーシェアリング


吹き付ける風が強く冷たい。
電車は15分に一本。
次のが来るまで10分以上も待たねばならない。

柏原駅のホームで寒さに身を縮め、そうだ、正宗屋に行こうと思い立つ。
「正宗屋に行く、夕飯はいらない」、家内にそうメールする。

ようやくやってきた各駅電車に乗る。
のんびりぶらり天王寺駅まで運ばれる。

いいだこ煮、おでん牛すじ、カツオのたたき、蒸し豚、にんにく唐揚げ、酢牡蠣、そして鳥皮に軟骨。
正宗屋の超豪華ラインナップをなぞっていく。
冷え込む夕刻、飲むお酒は誰だって焼酎お湯割。
カウンター席の隅っこ、息を吹き返すひとときを過ごす。

大満足。
無人の事務所に寄って帰り支度し家路についた。


神戸線の車内。
隣の二人組のおじさんがする話が耳に入る。

あいつには仕切りがない。
謝罪がない。

話の端々から大手の会社の管理職だと窺える。
電車の吊革に並んでつかまり揺られ揺られて部下の誰かをこき下ろしている。

二人口を揃えてデュエットするかのよう。
仕切りがない。
謝罪がない。

揺られ揺られてロックンロール。

ふと、さだまさしの歌詞の一節が頭をよぎる。
元気でいるか。
街には慣れたか。

遠くにあって親にその身を案じられる彼はいま会社の上司にこき下ろされている。

正宗屋で得た心地よさがだんだんと薄らいでくる。

忌むべきは中間管理職。
その話の下らなさと言えば、嫁姑話にひけをとらない。

仕切りがない。
謝罪がない。

おそらくはどうだっていいような些事瑣末を取り上げての熱唱であるに違いない。


釜揚げうどんの一忠と言えば八尾においては知らぬ人のない名店だ。
うどんを打って44年、ほぼ半世紀。
まさにその屋号のとおり、うどんに誠を捧げ続けてきた。
その老舗が来年7月末日をもっていよいよ閉店となる。

閉店を報せる貼り紙を目にし深い感慨を覚える人は少なくないだろう。
生まれたときから一忠はそこにありつづけ、おいしいうどんを振る舞ってきた。

各自の胸にしまわれた数々のシーンが蘇り、店主への感謝の気持ちが込み上がってくる。
お疲れ様でした、心からそう労い頭を下げたくなる、というものであろう。

そして、そこから我々男子は、仕事の何たるか、を学ぶのだ。


仕事については一貫した出力こそが最重要であろう。
一時的なものではない長く安定しかつ品質確かな出力があってこそ尊ばれる。

一忠であれば釜揚げのうどんであり、たけふくであればカツ丼だ。

確かな何かを他者にもたらし続ける。
その中身ある仕事をこそ自らのプライドの根に置ければ幸福だ。
男子であれば誰だってそう望むに違いなく、それを果たせる喜びに勝るものはない。

男子への途上にあれば、それが最も大事なことなのであると早くから知って熟慮重ねた方がいい。
自分は誰に何をもたらすのか。
そう問い続ければ霧は晴れ、確かな何かと何度でも出合えるはずである。

そしてやがては清々しいような思いで自らを磨き鍛えあげ、出力の喜びを噛みしめることができるようになることだろう。

五里霧中に留め置かれ自らのハンドル操作を他者に委ねたままの曖昧模糊ほど虚しいものはない。


手応え感じる中身が伴わないと、やっていて面白くない。
中身がないと心ここにあらずでだんだんと不機嫌になる。
中身がないからガワを飾って強調し空っぽを押し隠さなければならなくなる。

頼りになるのは虚勢だけ。

だから身内をさえつまらない理由でこき下ろすのだ。
電車の車内、二人組の話を横で聞いていて不快になってきっとそうだと私は決めつける。

話の端々、会社名に関してどこか自慢気だ。
そこだけ黄色のマーカーで縁取られているかのよう、そう聞こえて仕方ない。

公共の場所では会社の話はまかりならぬ、部下をこき下ろすなど以ての外という研修がおじさんらには必要だろう。

その尊大な話しぶりによっておじさんらの空虚がさらけ出される。
滑稽にさえ思えるが、やはりどうにも切ない光景であると言うしかない。

会社の威光のカーシェアリング
そのような言葉が浮かぶ。
酔った私の語彙は乏しくいつだって的外れだが、要するに、とても小さく、つまらない。

子らには言い聞かせておかねばならない。
つまらないことで尊大になることは恥ずかしく、暇潰しがてら自分の部下をこきおろすなど更にみっともない。

世は他山の石に満ちている。

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