KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

負けるが勝ちとはまさに男子のための言葉


今日は成人の日。
朝の6時から美容院は店を開け晴れ姿の女子の手入れに忙しい。

事務所近くの交差点。
振袖姿の女子が信号待ちしその真横に母が立つ。
母の顔まで晴れがましい。

おそらくは日本中、成人となる子らに母の眼差しがこの日一斉に注がれる。

お腹を痛め、あれやこれやあったが、よくぞここまで育ってくれた。
いっぱしとなった子の姿が母の思いを過去へと向かわせる。
何か眩しいのだろうか鬼の目に涙。

しかしこれも単なる通過点のひとつ。
二十歳過ぎても子は子供。
このご時世である。
孫が二十歳となる頃になってやっと子は一人前。

一粒で二度美味しいとはまさにこのことであろう。
その頃になってようやく親は晴れてのお役御免となる。
今度は異趣の涙がちょちょぎれる。


新聞の訃報欄。
すい臓ガンを患いあるジャーナリストの方が亡くなった。
歳は51。

私は46。
目と鼻の先の年齢だ。

漠然と、80まで生きて旺盛に仕事し続けるのだと思っているが、一寸先は闇、どうなることやら実は誰にも分からない。

不本意ではあっても、そうであるような場合について頭には入れておかねばならないだろう。
明日は我が身、かもしれない。

一昔前ならいつオシャカになっても何ら不思議のない年齢である。
二十一世紀の今だっていつ何時、悪性新生物がひょっこり軒先に宿るか知れたものではなく、あれよあれよという間に母屋取られ、はいさようならとなっても驚くには当たらない。

やはりどうやら、子に日記を書いて残すこと以上に重要なことはない。

カラダ滅してもここでならまた会える。
この行間にわたしはいつだって息づいていて、場所と時間を問わずここで子らと心を通わすことができる。

マジかよ?
マジでそう思っている。


正月休みは終わったが、一年の大海原に漕ぎだす前に成人の日があって一呼吸おけることは幸いである。
また、浮かれ華やいだ気分が一気に急降下するのではなく、コンサートのアンコールみたいに十日戎であとひと盛り上がりできることは、気持ちに踏ん切りつけるうえで大いなる助けとなる。

徐々に慣れて、日常の軌道へと戻っていくことになる。

そのようなおまけ気分の名残りを惜しみつつ、映画「海にかかる霧」を見る。

人に内在する野卑さがそのままストレートに描かれる。
韓国映画に特有のリアリズムがやはりここでも生々しい。

沿岸地方の漁業従事者の日常の風景から映画は始まる。

漁業が斜陽であり、資金繰りに窮している漁船の船長のあとを辿って出だしこそのんびりとストーリーについて行くが、急転直下、一気に差し迫った状況に引きずり込まれ、観る者はその野卑さの真っ只中に置かれることになる。

船上で繰り広げられるシーンを目の当たりにするに至っては、この映画を家族に勧める気が失せた。
しかし、家族に勧められないだけのこと。

人が有する血生臭さについてここまで真正面から描けば立派であると一方で私は感心することしきりであった。
剥き出しのヒトのサガのようなものについてはオブラートに包んで曖昧にすることの方こそ罪なことかもしれない。

本質から目を逸らさないこのリアリズムの在り方は、真摯であるとさえ言えるだろう。


そして意外なことに、どさくさにまぎれ、この映画は恋愛映画でもあった。
こと恋愛についてもリアリズム。

映画が描く悲惨さから離れ、言葉を失う結末からも離れエッセンスだけを汲み取れば、男子は女子に翻弄される、そういう定めにあるということが痛いほどよく分かる。
だから船長は女を船には乗せまいとあれほど意固地であったのだ。

男子は女子に翻弄される。
もし女子が男子に翻弄されるならその女子は女子としてよほどの不出来と見て間違いがない。

女子は男子に取り扱える代物ではない。
女子は男子の手には余って、男子は所詮は女子の手の平。
つまりは、男子がグーで女子がパーなのだから、端から優勢劣勢が確定した間柄と言う他ない。

女子にいささかも悪気がなくこれっぽっちも悪意がなくとも、女子にはいろいろと事情があって都合があって、ごくごく自然に話には小ウソが混ざり、虚実は男子には見通せず、一人勝手に肩透かしを食うのは決まって男子ということになる。

映画のラストシーン。
あの一コマが男女の真実を雄弁に物語る。
主人公は、女子の世界の埒外の存在でしかなかった。
グーやらパーやらといったじゃんけんの相手ですらなかったのである。

女子が悪い訳ではない。
落ち度があった訳でも、咎められるような邪心があった訳でもない。
女子にはいろいろと事情があって、たいていほとんどの場合、男子の器量はその事情より一回りも二回りも小さいものなのだ。
つまりはグーで下手すればパーと相見えることすらない。

そうと知れば、青年となった際、恋愛前線でアホ踊りしている場合ではないと骨身に沁みるだろう。
いくら煽られてもその気になって愛だの恋だのとのぼせ上がる世間知らずの一群に加わってはならない。

所詮男子が夢想するところの勝ちはなく挙句の果てには虚しいだけで、万一勝ってしまったらもっと最悪、後味の悪さが一生尾を引く。

負けるが勝ちとはまさに男子のための慰めの言葉。
さっさとこれはと思う相手を見つけて女房にするべく決定的な勝ちを相手に献上することである。

そしてスコア0−1の敗北で男女戦線から退却すること。
それが男子理想の有終の美となる。

あとは手の平。
末長く連れ添い、自身の本質的な仕事に精出すのがいいだろう。

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