KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

物欲の呪力はますます薄れゆき

二男が足を止め私を手招きした。
デリバリーバイクが停まっている。
彼が指差す。

フロントフェンダーにベンツのマークがマジックペンで手書きされている。
歪んだ楕円が不調和で線も不均一。

そのエンブレムの強烈な不細工さが目に焼き付いた。

今は昔、大阪下町の光景を思い出す。
ベンツと言えば滅多にお目にかかれない奇跡のクルマ。
見かければ思わず叫び、皆で目で追い、時には、社長、社長と連呼し後を追った。

あれから三十有余年。
ベンツは珍しいクルマではなくなり目にしない日がないほど大衆化した。
下町長屋の通りで見かけ、安売りスーパーの前でも見かける。
後を追ってもそこに社長の姿はないだろう。

古物商をあたればたたき売りのような値のものもある。
人生において何らの達成を果たさずともそこそこの手持ちは誰にでもある。
ベンツでありさえすればいい、であれば誰にだって買える代物となった。

今は昔、もはや存在しない会社の受付女子らの会話が思い浮かぶ。
社長の好みなのだろう、その受付の面々は揃いも揃ってヤンキー風の少し崩れたような女子ばかりであった。
彼女らがする話は専ら不倫かバッグ。

ステータスシンボルとも言えるような値のバッグを二十歳そこらの女子らが欲しがった。
いまやそれらもそこそこのお金さえあれば誰にでも入手可能だ。
事業が不調でちょっと冴えない不倫相手のおじさんでも少し頑張ればベンツには乗れるしヤンキー女子の欲しがるバッグくらいは買って与えてキャッキャ喜ばれることくらいのことはできる。

だから一昔前とは異なり、それらはステータスを表象するアイテムではなくなった、と言えるのかもしれない。
誰にでも手に入れられるものをわざわざ高いお金出して買って見せるなど、下手すれば知性の欠如をあからさまにしてしまうようなことかもしれず、ヤンキー女子らの間では羨望されても、注意怠れば一人浮いた場違いに気付かず、こっ恥ずかしい役回りをまっしぐらとなりかねない。

確かに値は張るが誰にでも手に入るという意味では安物、そのような高価な安物はやや滑稽なトーンを帯びたニュアンスを表象するようになった。

日本経済が一定の成熟に達し人は分別を備え、価値の枠組みが様変わりした。

先日4月14日付けの朝日新聞。
連載記事である「ミダス王の誘惑」に目が留まった。

20年前、日本の家計金融資産は900兆円ほど。
それがいま1300兆円以上にまで増大している。
しかし、消費の額は当時のまま年間240兆円程度で増えていない。

そのような内容の記載があった。

この20年に渡って資産が順調に右肩上がりで増大した訳ではないであろうし、また満遍なくどの世帯においても資産が増えたということでもないであろうから、前後だけ比べて一般的な傾向を読み取るのは早計であるかもしれないが、「お金はあっても日本人は無駄金を使わなくなった」という仮説は成り立ち得る。

経済の活性化には何としても消費が必要だ。
しかし、笛を吹こうが旗を振ろうが日本人は無駄なお金を使わない。
喉から手が出るほど欲しかったようなモノたちはすべて色あせ干からびて見える。
一部、物欲の残り火のようなものはくすぶっているのかもしれないが、見渡せばそこら中がモノだらけ、皆が我に返ってしまって、物欲を喚起する呪力はますます薄れゆくばかりのように思える。

消費で国中が沸きに沸くといったことはもはやないのだろう。
あの当時の物欲は何だったのか。
時折は懐かしみ、自らに向けた苦笑とともにその思い出も振り払われていく。

デリバリーバイクにまたがるオーナーはますます意気軒昂となるだろう。
茶目っ気たっぷり、手書きベンツの印で風を切って疾走する。
そのうち、その紋様を象ったのぼりを作って勝利の御旗としてはためかせるようになるかもしれない。

そして腕にきらりと光るのは間違いなくフランク三浦の時計だろう。

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