KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

小さく閉じた世界のその向こう側


ウグイスが鳴いて足を止めた。
ほどなく別の方角からも聞こえた。

新緑が陽光に映え目に眩しい。
河合町役場の庭園には何羽ものウグイスが身を潜めているようだ。

透き通ったような音色が緑の一帯へと響き渡って空へ吸い込まれ、やがて静寂が訪れる。
しばしそこに立ち耳を澄ませた。

土曜午後、仕事を終えたばかりであった。
心ほどけて疲れが癒える。


電車を乗り継ぎ大阪に向かう。
途中、王寺駅で乗り換えた。

西大和学園の生徒らの姿がちらほら見える。
ちょうどいまが体育祭の準備の佳境、勉強そっちのけで大わらわといったところだろう。

西大和と言えば京大への進学者数で名を馳せた。
いま京大よりもむしろ東大をこそ目指すべき大学として掲げているようだ。

子どもたちを取り巻く社会情勢を読み、価値評価を鮮明にする姿勢には清々しさすら覚える。
もちろん心意気だけではなく、可能性志向で何事も前向き、実現のための対策が綿密に講じられ、子どもたちの視野を広げんと多彩なプログラムが提供される。

課題を設定し実現のためのプロセスを生徒と学校が一体となって回していく。
先生らのコミットメントは生半可なものではなく、教師が担うべき責任から冷ややか腰引けたような態度は全く感じられない。

ここに通う生徒らは恵まれていると言えるだろう。
微細であっても個の発信を最大限汲み取ろうとする配慮が行き届いている。
なんでも相談でき、意向に沿った問題解決に向け親身になってもらえる。

十代の多感な頃にこのような熱く温かな支援を得られることはどれほど心強いことだろう。

村の一番高い塔へ子らを連れ、小さく閉じた世界のその向こう側を見せてあげようとする。
人類普遍の大人の役目を手抜きなく学校が果たし親もまた良き触発を受ける。

視野を広げれば、個々の目に何が映るだろうか。

京大ではなく東大へ行きたい、と思う者が出てくるのも自然なことであろう。
舵を切ったばかりではあるが若干の過渡期を経て目に見えての成果を上げる日も近いに違いない。


関西に居を置く親とすれば懐事情も考え、何も東大でなくてもいいではないか、京大で十分ではないかとまずは思う。

そう思う一方で、東京への一極集中がますます進み、関西圏はその足元にも及ばないという状況が続く。
差は開くばかりで流れすら変わる気配なない。
そのような世相を目の当たりにしている。

風穴を開けるきっかけになると見えた大阪都構想も事実上立ち消えになってしまった。
事態は絶望的である。

東大でも京大でも合格できるといった実力の場合、子どもにとって、どちらを選ぶのが好ましいことなのであろうか。
俊英集う京大であるから入学できるならこんな誉れなことはないであろうが、その誉れと職業人となった際の将来は必ずしも結びつくものではなく、誉れ以上に、例えば肌で感応した地域活力や人的交流の方こそが、職業人としての礎としてものを言うのではないだろうか。

大学生となっていよいよ社会というフィールドの一歩手前まで入っていくことになる。
社会人となる直前の貴重な留保の時間だ。

静か田舎化していく地で沈思し過ごすことで得られるメリットも十分に理解できる。

しかし、世界間で競争が熾烈化していく時代となることは避けられそうにない。
であれば、変化と刺激、情報と人の集積地に当事者として身を置くよう親としては提案することになるだろう。


大阪星光33期には80名にも迫るほどの数の医者がいる。

進路指導において目標を掲げ旗振って成長を促す西大和とは対照的に、星光の場合は生徒の自主性を信頼し任せるといった傾向が強い。
だから星光の場合は背景にある家庭の方針が鮮明に反映されるし、また、南部や黒姫などで一体となって過ごすなか生徒間に稠密な人間関係が生まれ良き相乗効果のもと進路についての弁証法的な洗練が成される。

その結果としての33期の80名にも及ぶ医師数であるが、彼ら友人らの様子を眺めたとき、子を持つ親として東大か京大かを問う以前に、医学部に行けばいいのでは、という考えが先にくる。

自身が経てきたような、明日をも知れぬような道を行けなど、とても我が子には言い難い。

この先の社会情勢によっては医師の社会的位置づけも不変ではないであろうが、他の職の不安定さに比べれば、はるかにましな話だろう。
だから親は医者はどうだと子にすすめ、世の険しいような実情知る優秀な子どもたちはその多くが医者を目指すということになる。

しかし、親心の誘導に対し、子がそうだねと言わない場合はどうするか。

彼らの人生である。
その意思の真正を確かめ、それを尊重することになるだろう。


おとなりの韓国では、若者らが自国のことを「ヘル韓国」と自嘲しているという。

過酷な競争社会をくぐり抜け、しかし行き着く先は非正規仕事に従事する不安定な立場。
人として当たり前の営みであったはずの、恋愛も結婚も出産も放棄せざるを得ないほどに困窮し展望も描けない。
それでいて親世代からは努力が足りないからだと叱責される。

まさに地獄である。

唯一の希望は、国外脱出。
アメリカやカナダ、オーストラリアなどといった国で学ぶチャンスを得られれば国を捨てる覚悟で死に物狂いで勉強し自らのスペックを高めそこで職を得る。
そうすれば家族を呼び寄せることができ、人として当たり前の暮らしを送ることができる。

日本が韓国のようになるなどあり得ないことではあろうが、しかし、若者が置かれた現状は近似している。
そのように視野広げて考えれば、東大か京大かといった切り口自体が虚しい話にも思えてくる。

「この国には何でもある。だが希望だけがない」という村上龍さんの言葉が、ますます骨身に染みるような色調の世となってきているのは確かなことであろう。

炭鉱のカナリアのように、いよいよ日本の事態急迫の際には、西大和は海外の大学を目指すべき進学先として掲げ対応するのだろう。

ウグイスは東アジア一帯に生息する。
子らはその鳴き声とは無縁な地で生きることになるのかもしれない。

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