KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

「嫌」もそのうち屁でもない

土曜日は平日の予備日のようなものであり、用事があれば躊躇いなく仕事の予定を入れる。
自営業はよくしたもので仕事の強弱を自在に調整できる。
だから、土日が仕事で潰れたところで屁でもない。

仕事を終え熱射の川べりをジョギングし、帰途、行きつけの給水ポイント、ファミリーマートで缶ビールをゴクリ飲む。
このビールの美味いこと。
走る心地よさを凌駕する。

家の冷蔵庫ではよく冷えたワインがわたしの帰りを待っている。
家内がジュリエッタでアンティパストを買って来ることになっている。
まもなく夕刻、乾杯の時間だ。

今日も公園のグランドに二男の姿がある。
長男は自室で勉強に励んでいる。

彼らの夕飯は手作りかき揚げ&天ぷらを添えた冷やし蕎麦。
蒸し暑い季節にうってつけ。
大量の蕎麦があっと言う間に彼らの喉を通って胃袋のなか消えていくことだろう。
何を食べても美味しくて仕方ないという食べ盛りの二人が微笑ましい。

いろいろ大変であっても日々楽しく奮闘できているようで何よりだ。
しんどいことや気重なこと、嫌だと思うようなこともないはずがない。
それらに立ち向かってしっかりと乗りこなせている。
親としては黙って見守るだけとなる。

かつてラグビーを習わせ始めた時、子が言った。
ラグビーの練習はきつくて嫌だが、終わったときの充実感と解放感がたまらない、あの平和な心境は癖になる。

「嫌」は文字通り嫌なものだが、そこに意味を発見し咀嚼できれば御していけることもある。
波乗りするみたいに「嫌」の上に乗っかっていければ、「嫌」もそのうち屁でもないという話になる。

しかし「嫌」は猛烈な毒にもなり得るものなので、その取り扱いには細心の注意が必要だろう。

例えば、塾の勉強が嫌で仕方ないという子があって助けを求めてきたときに力でねじ伏せ無理強いしてしまうと、子は「嫌」を呑むのではなく「嫌」に呑まれて、生涯にわたって勉強を毛嫌いすることになってしまうかもしれない。

当の親が勉強について意味や目的を見出し、かつ、現在の勉強と子の未来をきちんと接続して描き説明できるのであれば、当初は嫌と思った子でも、意味や目的を理解し、そこに少しは喜びを見出し、たまには楽しむということもあり得るだろう。

憧れが喚起されれば、力への意志というものが発動するように人間はできている。

ところが、親が単に小さな世間に右へならえしているだけであり、親自身の肥大したエゴと負けん気がエンジンとなっているような場合、子が感じた「嫌」は親の人格をも巻き込んで巨大化し毒となって作用しかねない。

特に「あんたが言うか」という無思慮で怠慢な親に強要されれば、勉強が嫌という話に留まらず子は反発し親は更に強硬な態度をとってついには虐待の色合いを帯びてくる。

子が直面するのは息苦しいだけの意味不明な地獄の日々となる。
親に絶望し、課題を前に途方に暮れ、自らを憐れんで嘆息する。

何のために生きているのだろう。
虚無まであと一歩。

虚無は幸福の真反対にあり、力をこれっぽちも意志しない。

こうなれば、元も子もない。
何のための子育てなのか、本末転倒も甚だしいという話となる。

スパイス程度に「嫌」をまぶして、その渋味と旨味を楽しめるようになるには絶妙のさじ加減が必要となるが、それには最低限、親も「嫌」との格闘を経た者である必要があるだろう。

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