KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

戦慄にだって意義がある

久々、大阪市立科学館に出かけた二男であったがそこで星光の後輩たちを見かけたという。
研修館滞在中の中1だったようだ。

プラネタリウムでひととき星を見上げて二男が帰宅したちょうどそのときわたしもジョギングを終え家に戻った。

雨降る日曜の午後、リビングに並んで二人で映画を見る。
わたしが借りてきた「あいつの声」。
実際にあった事件をモチーフとする韓国映画である。

小学生の子が誘拐される。
身代金を要求する犯人との電話を通じたやりとりが緊迫していて息が詰まる。

誘拐されてからの日々、親の憔悴は途方もない。
映画によって、その心境を追体験させられる。

そしてハッピーエンドとはならない。
目を背けたくなるシーンが終盤に差し挟まって、わたしたちは絶句した。

子に見せるような映画ではない。
そのように考える親も当然あるだろう。

しかし血なまぐさいような映画であっても躊躇いなくわたしは子に見せる。
子を怒鳴ったり、子に手をあげることはないが、恐怖には触れさせてきた。

ヒトの暗部を突きつけられ気持ちがげんなりしてしまったとしても、そういった現実の一端を知ることも大事な学びであるだろう。

もちろん見るときはわたしも一緒。
大人が付き添い説明を加えるのでなければ、片手落ちとなる。

都会には闇がない。
だからこそあえて闇に触れ、それが何であるのかと目を凝らす機会があった方がいい。

その一歩向こうに震え上がるような恐怖があると知ってはじめて、生存本能は活性化されるだろうし、恐怖を押し返すような抵抗力も醸成される。

知らなければ鈍感に過ぎ、避けて通れば虚弱に陥る。
戦慄にだって意義がある。

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