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KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

家族挙げて英語強化に取り組む時代


昨日の朝日新聞。
オピニオン欄の内容が目を引いた。
政治学者である施光恒さんがする主張ももっともなことである。

いま日本では英語強化の施策が採られ、小学校では英語が教科に格上げされ、大学での授業は英語でするよう推奨されはじめている。
この現状に対し施氏が疑義を挟む。

英語強化は国民を分断する施策となりかねない。
エリート層が英語を駆使し階層によって話す言葉が異なれば民主的な風土が薄れ国民の連帯意識にも楔が打ち込まれることになる。

それだけでなく、日本語が知的な用途での主役ではなくなりそうなれば日本の国力自体がそがれることになるのではないか。
思考力や創造力の基礎には母語こそがふさわしく、そこに利き腕と異なる言語が来れば、日本人の知そのものが弱体化する。

そして個々の英語力によって日本人の経済格差は更に広がっていくだろう。

小学校で英語が教科になれば、おのずと中学入試の選考科目になっていく。
就職の選別の場面でも、いま以上のシビアさで英語によってふるいにかけられることになる。

英語の出来不出来が人生を左右する国になり、しかし知力は下がって国力は低下する。

そのような危惧にいちいち頷かされる。
なるほど一理も二理もある。

そして、かつて読んだ酒井穣氏の名著「21世紀の生き方」を本棚から取り出す。
英語習得のメリットについて述べつつ、早期の英語教育に潜むリスクについても酒井氏は言及する。
氏が述べる仮説には強い説得力がある。

そのくだりはシオランの「私たちはある国に住むのではない、ある国語に住むのだ。祖国とは国語である」という言葉からはじまる。

言語は人格そのものであり、母国語によって自我が形成される。
10歳〜12歳になると外国語の習得能力が極端に低下するが、それは自我の確立過程において外国語には毒として作用する要素があり脳がその受入れを拒絶するからではないか。
だから、複数の言語を早期に習得することは、自我を揺るがせにするリスクを伴う。

氏の仮説を要約すればこのようになるだろうか。

実際、似た話をわたしも耳にしたことがあった。
幼い頃にバイリンガルになると英語はできるが算数や数学ができなくなるケースがあるのだという。
おそらくは、思考の根幹を成す論理性に複数言語による不協和音とも言うべきノイズが生じてしまうからなのだろう。

氏の仮説に通底するものを感じる。


そして、そうは言いつつも時代の流れは堰き止めようがない。

グローバル化を牽引してきた資本主義がこの先行き詰まろうと、もはやグローバル化自体は止めようがない。
そこで用いられる世界共通語が英語であることも変わらないどころか、ますます英語一極集中といった様相となっていく。

であれば、一般論は一般論として脇へ置き、我が身についてどうするのがベストなのかということを考えざるをえなくなる。
人生半ばも過ぎた中年についてはボチボチやるかという話で済むが、我が子のことになれば同じスタンスでは臨めない。

ちょうど先日、世相を先取りする形で西大和学園がいち早く中学入試において英語も重視する姿勢を打ち出した。
さすが西大和である。
先陣切って進む方向を鮮明にする姿勢に、理想主義と現実主義の両輪をますます確固とさせる学校の強さと勢いを感じる。

兄弟いれば、西大和の気風が家にも流れ込んで来るよう少なくとも一人は入れておきたい学校と言える。

英語重視の火蓋が切られそして時代はますます格差社会の様相を呈していく。
そんな世の中、間違っている、おかしい、と思おうがどうしようが、矛盾は限界に達するまでその図体をでかくするのが世の習いである。

資本主義は2050年に終焉を迎えるとジャック・アタリは言うが、しかしジャックの予測が「アタリ」かどうかは分からない。
2050年など当分先の話であり、その頃の生き方や価値については思い描きつつも、時流に合わせることもやはり欠かせないということになる。

うちの子らについては習得の副作用を案じる年齢は過ぎ、また社会の健全に気を配るには若すぎて、ついてはとことん英語強化にまっすぐ注力しようとのシンプルな結論になる。
英語に心得ある家内がいるのも我が家においては追い風だろう。

家族ぐるみで取り組める、そう思えば、英語強化のハードルも案外楽しんで乗り越えられるような気がしないでもない。

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