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KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

学校の友達は本当に大切な存在なのである


なるほど、閉じたり開いたりというのが人間のようである。

先日誘われて交流会のようなものに顔を出した。
初対面の方ばかりであったがフレンドリーな雰囲気が馴染みやすく、その活気と結束に感心させられた。
このような仲間に恵まれタッグを組んで世を渡ればとても心強いだろう。

仕事においてどちらかと言えば一匹狼。
そんなわたしからすれば互い助け合う人間関係は羨ましく見えた。

しかし、その会に密着的に参加するのは難しく入会は断らざるを得なかった。
享受できるメリットがたとえ大きくても、負担と身軽のうち後者を選ぶのが一匹狼の特性である。

で、数日後のこと。
偶然にもその方々と顔を合わせるような場面があって、驚いた。
挨拶しようと視線を寄せるが、ことごとく眼が逸れていく。

ゴロツキが闊歩するならいざ知らず、常なるニコヤカと異名とるほどの般若顔の私である。
しかも昨日の今日みたいなものであり顔を覚えていないはずはなく、気のせいにしては、やけに明確によそよそしい。

なるほど、これがハンド・オフというやつか、と思い当たる。

営業のおじさんらがよく使う。
「見込みがないと分かれば、ハンド・オフです、考えても無駄なので相手のことは忘れて振り返りません」

本来の言葉の意味に由来するのかどうかは知らないが、文脈から含意するところは明らかだ。

営業の場面ではいろいろ神経を使う。
時には傷つくこともある。
が、成果に繋がらないのであれば気を揉んでも仕方がない。
であれば全てはなかったこと、白紙にした方がせいせいする。

要は、関心の電源を切る、という話だからスイッチ・オフと言う方が適しているような気もするが、握手の対義としてハンド・オフと表現する方が彼らにはしっくりくるのだろう。

つまり、状況や関係性によって、人は閉じたり開いたりする。

君たちもそろそろそういったことを知っておいた方がいいだろう。


人によって態度を変える、というのは大なり小なり誰だって同じこと。
人間は様々な側面から成る多面体のようなものである。

だから数ある面のなか一面に打算の浮かぶこともあってそれでこそ人間的だとも言えるだろう。

しかし、世間には全面くまなく打算的という人種も跋扈している。
君たちの頭にも、あああの人ねと頭に浮かぶ人物があるかもしれない。

常に利害が念頭にあり、利がないとなればたちまち眼のスイッチがオフになる。
名づけて、アウトオブ眼中。
視野に入っていても利をもたらさない者に関心寄せることはなく邪険に見下し全く意に介さない。

ところが、利があるのかもとなれば、にわかやたらと活気づく。
媚び諂って追従のお囃子を口ずさみしなを作って歌って踊る。

その変わり身の早さは薄気味悪いほどのものであるが、つまりは、そういった力学が第一法則のように作用する場が世間なのである。
人は閉じたり開いたりし、一見、心開いてつながっているように見えて実は全く閉じているというケースもあるということだ。

状況や関係性によってケースバイケース。
どう使い分けるにせよ全面打算に見えるその彼も、家に帰って身内を前にしたり気心知れた友人を前にすれば胸襟開いて人としてニュートラルな接し方もできるに違いない。

つまり、世の中には身内という存在と他人という存在の二種類がある、という話になる。
身内は当たり前に身内であり、他人は他人。
他人が身内という位置づけになるには、人間関係を築くための確かな交流が必要で時間がかかって容易ではない。

通常は、結婚か学校か。
身内の醸成される場所は限られている。

わたしの友人らと顔合わせたときのことを思い出してみればいい。
蛇口をひねれば飲める水が出るみたいな、安心感と信頼感を覚えたはずである。
何の見返りもなく君たちに良くしてあげようという優しさを感じたと思うのだ。

それが身内感覚、というものだろう。
他人行儀な警戒心と無縁でいられる人間関係というのは、それはもう貴重なものなのだ。

だから、いま君たちが通う学校の友達は本当に大切な存在なのである。
お金積んでも手に入らないし、交流会などで組成できるはずもない、唯一無二、いわば奇跡の人間関係とさえ言えるだろう。

身内とも言える友達は、簡単にできるように思えて実はぜんぜんそうではない。
いまからそう知れば、日頃感じる数倍の愛着を彼ら友達に感じることになるだろう。

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