KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

子どもたちが見ている2

大の男であっても制御できないシチュエーションというのがある。
経験則に照らせば足掻けば更に状況が悪化するのが分かっている。
姿勢を低くし事態の好転を心静かに待つのが最良だ。
正気を保って辛抱を続ける。

こういったときには子の顔を思い浮かべるのが実によく効く。
頭痛の際のロキソニンさながらの作用。
外が雨であろうとう嵐であろうと、あら不思議、心のなかに晴れ間が見えて平穏が兆し始める。

いま置かれたこの状況から学ぶことは何だろうか。
ここで何を得て何を子に伝えるべきなのだろうか。

その方向に思考が向き始めると、むき出しだった意識に覆いができるかのよう、当事者というよりは一歩ひいた客観的な視点に主観がうつって、困難がもたらす直接的な刺々しさの痛みが和らいでいく。

思考が本質的な役割に沿って働き始める。
それ自体が良きことだからであろう、渦中から脱したような、違う境地が訪れる。

内にある何かが言う。
ここから学べ、適応せよ。

多様な適応が果たせるかどうかが種の存亡を左右する。

適応のフィールドを拡大しアップグレードさせるには、困難が不可欠だ。
困難は個を脅かすが、種にとってはそこから汲み取られる情報は価値となり得る。

わたしたちは、困難に直面して学び、それを次世代に伝えるという、バトン走者のようなものなのだろう。

気も遠くなるような時間リレーの、一瞬だけのちっぽけな一走者として、必死のぱっちで目を見開いて走って、次に続く者へとまさに生命を賭してのバトンを託す。

何のためにそうなっているのか、そのメカニズムの大目的など知る由もない。

が、それが生きることの本質なのだと思えば、エゴは薄れ、絶え間なく襲い掛かってくる困難に対しても、どれどれといった野次馬根性のような積極的関心も芽生えてきて、より一層自由快活に人生を楽しめるような気がしてくる。

そして、伝え終え、もとの安からな無へと還っていくことになる。

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Photo by Marc Riboud