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KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

自分ツッコミでバランスを保つ

日曜日、仕事は休みで出かける用事もない。
雨音に耳を傾け、明け方のコーヒーを味わう。

お酒を飲まずに過ごした日の翌朝、カラダが楽で寝覚めがとてもいい。
五感がクリアになっているようにも思え全身すみずみまでが心地いい。

ゆったりと朝刊のページをめくっていく。
毎日新聞の書評欄で「レジリエンス入門」(ちくまプリマー新書)が取り上げられていて、目を引いた。

レジリエンスとは、ストレスに抗する力のことをいい、これは生得のものではなく鍛えることができるのだという。
「知識ではなく視点を増やし、柔軟な発想を養う」ことでレジリエンスは強くなる。

そのためには「白黒ハッキリさせたがる二分化思考や常識に縛られた、『当然・べき・ねばならない思考』を捨てる」という心の持ちようが重要で、「物事が順調に進まないことや失敗を嫌う完璧主義ではなく、いろいろな制約があるなか、行動しながら改善を繰り返す最善主義」という在り方が望ましい。

なるほどと思い、子らにも読ませようと切り抜いた。

ちょうど昨日、過労自殺について労災認定が認められたというニュースが新聞で報じられていたばかりであった。
委細知るにつけ、子の親として決して他人事とは思えず、胸の痛むような思いが募った。

わたし自身、暗黙にであれ「頑張れ、立ち向かえ」といった単純なメッセージを子に発している部類の親である。
しかし、「頑張れ、立ち向かえ」だけであれば、言葉足らずにもほどがある話だと気付かされた。

世には苦境というものがあり、苦境は残り越えねばならないが、しかし、背を向けるべき苦境というものもある、そう教えておかねばならないだろう。

例えば、心身ともに過負荷な状態に留め置かれ、挙句、思いやられることもなく尊厳さえ明け渡さなければならないという立場になるのだとしたら、もはや人間ではなく家畜や奴隷と同じようなものである。

そうならば乗り越えるもへったくれもない。

人間なのである。
家畜や奴隷まがいの立場で義務を果たすよりも、自由であることが価値として優先されるべきである。

家畜や奴隷が責任を重く受け止める必要など全くなく、もし責任放棄に気が咎めるなら、それは単に調教によって洗脳されただけの話であり、そんなときは自分が「人間」であることをまずは思い起こすべきだろう。

過剰適応するボケた自分に「ええ加減にせい」と優しくツッコミを入れ、振り返りもせずその場所から出ていけばいいのである。

世の中、選択肢は星の数ほど。
頑張る対象は、選びたい放題。

にっちもさっちもいかなければ、朗らか明るく「ダメだこりゃ、次いってみよう」と仕切り直せば済む話なのである。

毎日新聞に目を通し終え、引き続き、朝日新聞に移る。
「やり抜く力 グリット」(ダイヤモンド社)についての書評欄を切り抜いた。
先ほどの「レジリエンス入門」と似通っていてしかし好対照。

グリットとは、やり抜く力。
成功にはグリットが不可欠で、その力は「目標を達成しようとする情熱と最後まで努力を続ける粘り強さ」から成る。

グリットを伸ばすには、「興味を掘り下げる、練習の質を高める、自らの目標が利他的な目的とつながっていることを意識する、絶望的な状況でも希望を持つことを学ぶ」ことが必要で、また、グリットを伸ばす上で「温かくも厳しい賢明な親、教師、コーチなどが重要な役目を果たす」。

以前なら手放しで、その通り、グリットだよ人生はと賛同する内容であったのだろうが、考え込まされる出来事があると若干見方が変わってしまう。

情熱、努力、やり抜く、達成、世はそういった言葉に溢れているが、話半分でいいのだろう。
そのように思えてくる。

親も教師もコーチも賢明でない場合がほとんどで、そんな連中が言う、情熱、努力、やり抜く、達成、など的外れでトンチンカン、大きなお世話といった類のものになりがちであるから、真に受けず聞き流すくらいでちょうどいいのだ。

やり抜く力としてのグリットを軽んじるつもりは全くないが、優先順位で言うならば、ストレスを御するレジリエンスの方がはるかに大事だという気がする。

「ええ加減にせい」と適宜ツッコミを入れるレジリエンスの柔軟さがあってこそ、「頑張れ、立ち向かえ」というグリットのシンプルなボケがのびやか活きてくると思うのだ。

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Catching the rain, Robert Doisneau