KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

ただ書いただけの日記3

週末金曜、FM COCOLOからは池田なみ子さんの声。
早朝から根を詰め文書を作成し続け、午後、解放された。

後を任せて昼食がてら街に出る。
久々ゆっくり本屋でものぞこうと梅田方面に足を向ける。

空は快晴。
初冬の空気が凛と澄んで気持ちいい。

冷気のなか、年の瀬近づく懐かしいような匂いが感じられる。
誰だって年末年始に心安らぐ。
日本を思う情景のなか、しんと静まる年末年始の風情にまさるものはない。

ぼんやりと往来を歩き、ふんわりとした無に身を任せる。
頭の凝りがいい具合に和らいでいく。

無秩序に人が行き交う。
誰でもない無名の者としてそこに溶け込んでいく。
無数の「わたし」に混ざって感じる浮遊感がとても心地良い。

行き過ぎる誰もが、各自それぞれのことを「わたし」と認識している。
例外なく全員が「わたし」であって、その意味で皆が等価な存在だ。

最も身近なこのわたしが消え去ったところで、世に「わたし」はあり続ける。
つまり、「わたし」は不滅の存在。

ふと思う。
わたしたちが自分のことを「わたし」と思うのは、「わたし」という実体があるからというより、サバイバルの手段として理に適っていたからというのが正しいのだろう。

「わたし」という認識の有無が生死を分かち、その強弱が盛衰を分けた。

わたしたちの祖先はそもそものはじめから「わたし」であった訳ではなかったはずだ。
便宜的な必要性から「わたし」という認識の断片を獲得していき、やがては、原初的な認知の組み合わせが膨大な時の流れを経て「わたし」という現象として結実していった。

根底には生き延びようとの揺らがぬ意志が横たわっていた。
つまり、「わたし」とは生き延びようとする意志の表出そのものと言えるのかもしれない。

梅田は大阪随一の繁華街、そこに人混みの絶えることはない。
「わたし」という生命の息吹が次から次へと無数に湧き出る往来を押し合いへし合いしようやく本屋に至る。

久々の巨大書店で目を凝らす。
所狭し、そこにはパッケージにされた「わたし」が時間を超える渦となってひしめきあっている。
凄まじき哉、人間。
その過剰に圧倒された。

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