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KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

開けっ広げな酷薄が現実の本質

午後9時過ぎ。
この時間に電車に乗ることは滅多にない。
電車を使う場合には二通りあるが、遠出仕事のときにはさっさと直帰するのでもっと早い時間になり、酒席があったときにはもっと遅い時間になる。

乗客の大半はたったいま勤めを終え、ようやく帰途についたところといった風に見える。
どこを見回しても、車内はくたびれ感満載である。

目の前に立つ女性のバッグはブランドものだが革は傷んで色はくすみ、縫い目がほつれている。
横の女性もまだ若いが手に持つバックの底が擦り切れ、服装もチグハグ。
間に合わせで済ませての出勤なのだろう。

どちらもその出で立ちに疲労困憊が投影されているかのように見える。

身なりにまで手が回らない。
とてもそれどころではない。
毎日毎日が精一杯。

きっとそういうことなのだろう。

そして周囲取り巻くオジサンたちは、くたびれ加減ではいつだって鉄板。
激務をともにしたスーツはどれも縒れて色あせ萎えきって、のされて這這の体となった革靴がオジサンらの過ごした厳しい一日の現実を垣間見せる。

もっと早い時間の電車だとここまでの消耗にはなかなかお目にかかれない。
それはそうであろう。
夕方6時の仕事あがりなど余力十分。
ピンピンしていて当然で疲弊の影などのぞき見えるわけがない。

逆に、もっと遅ければ酔い客混ざって疲労はそこそこ昇華され、ほぐれた空気さえ漂いはじめる。

だからこの時間帯がドンピシャ。
午後9時を知らせる時計の音とともに車両の疲労密度がピークに達する。

そして、それこそが現実の相貌だ。

このところは誰だってスマホを覗き込み、SNSが現実の一部また全部を構成しているかに見える世相であるが、しかし履き違えてはならないだろう。

ご機嫌麗しゅう飛び交うSNSでの厚化粧など所詮は、そう見てほしいという願いと思惑含みの絵空事。

例えれば目抜き通りの店先に色とりどり風船並べる北朝鮮のようなもの。
旅人乗せたクルマがそこを駆け抜ければ、なんだか品揃え豊富で賑わった平壌であったという記憶が旅人のなか醸成される。

しかし北朝鮮の現実はそのすぐ傍らにあって、その構造に例外はなく、日本だって要は同じようもの。
視線を移動させれば、そこには切ないような現実がしゃあしゃあと横たわっている。

誰にどう思われようがお構いなしどころか、誰がどうなろうと知ったことではない。
その開けっ広げな酷薄が現実の本質だ。

男子諸君、視線誘われるまま煙に巻かれて似非の絵面を鵜呑みにすればおたんこなすと謗られるのがオチである。
真実は隣接している。
ちょいと異なる見地でみれば一目瞭然。

ぽっかり口開けた落とし穴みたいに無慈悲然としそこに現実が佇む。
男子として注視し対峙しなければならないのはそちらの方であり、まずはそれが見えるようにならなければ何も話は始まらない。

いろいろ大変ではあるがそれが現実なのである。

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New York, 1950s.   ©︎PeterBasch