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KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

不要な勝ちは譲ってこだわらない

こう見えても二十代の頃は服にお金を使い、三週に一度は髪を切るなど身だしなみに気を使った。
思い出せば笑ってしまうがファッション雑誌などをチェックすることもあった。

街を歩くときウィンドウに映る自身の姿にチラリ目をやり悦に入るということもあったように思う。
どう見られるかという意識の肥大した青きメンタリティの時代であった。

ファッションが根っから好きでこだわったという訳ではなかった。
これを着れば自分が上等な人間になる。
そんな幻想にとらわれていたのだった。

幻想であるから脆く儚く、そこに投影した自尊心はすぐに剥がれて色あせた。
だから、良く言えばおしゃれ、悪く言えば空虚な青年時代であったと総括できるだろう。

いまとなっては遠い昔のことである。
ここ十数年、かつてのおしゃれな青年は、全く服に無頓着な中年に様変わりした。
家内が買ってくる服に袖を通して、ときおりは晴れがましいような気分になることもあるが一瞬のこと。

年齢重ね価値観が全く変わってしまったと言えるだろう。
見かけや格好など後ろ指さされない程度で構わないどうでもいいような部類の位置づけとなった。

長く生きれば次第次第知見は広がり、興味は人物の外から内へと変化していく。
それが自然なことだろう。
身なりや持ち物といったものよりもその人物の内実やその背中や足跡の方にこそ関心が向く。

自身についても同じであって、それなり修羅場くぐり抜け多少なり自負心のようなものが芽生えれば、「貼ってつけた」ようなものでいい気になるなどあり得ないことになっていく。

飛躍承知で言えば、絢爛豪華な金閣よりも寡黙静謐な銀閣の方に成熟した美を感じるといった話に喩えられるかもしれない。
大人になれば装飾は削ぎ落とすべきノイズの範疇へと移行する。

先日、朝日新聞の文化欄を読んでいて地位財と非地位財という言葉を知った。

新しい言葉を知ることは喜びだ。
その言葉によって視点が増えて、つまり世界が広がることになる。

地位財とは年収や地位や車や家や服など他人との比較によって満足を得られる類のものをいい、一方、非地位財とは余暇、自由、健康、愛情、家族、自主性といった他人との比較によらず満足をもたらす価値をいう。

生存競争においては他人との比較が不可欠でサバイバルするためには優位に立つ必要がある。
だから、地位財を欲する心理は生存本能に直結するものであって根が深い。

が同時に、サバイバルはかなりのハードワークであって、疲弊と背中合わせとも言える。
生存についての危機が若干は薄れた現代社会で、地位財志向を貫くのは、原始的に過ぎるといった話であるだろう。

そう考えれば、成熟した社会においては非地位財的要素に幸福を見出す在り方が道理にかなっていて頷ける。
地位財的闘争はほどほどに、非地位財的世界の構築を優先するのが幸福感知にあたっては賢明だと踏んで間違いないだろう。

勝者の椅子は限られて、財布の中身も限られている。

お先にどうぞ。

勝ちを漁ればあさましい。
不要な勝ちは譲ってこだわらず、自身の世界を足場に鷹揚に生きるのが理想的であるように思える。

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East Meets West, 1963. Photograph: Fan Ho