KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

自分自身の偏差値72

風呂を上がってソファに腰掛け金曜夜の憩いの時間を過ごす。
炭酸水を飲みながらテレビをつける。

ちょうど下克上受験の始まる時間だった。
以前、本を読んで感心させられた。
どんなものだろう、と見始めた。

偏差値41から偏差値72へ。
親子で壁に計画表を貼っている出だしのシーンのところでリビングに家内が現れ息子も降りてきた。

受験マニアだと家族に誤解されては気恥ずかしい。
慌ててチャンネルを切り変えた。

下克上受験の本を読んだのは、日記を振り返れば二年以上も前のことになる。
面白かったよとリビングの本棚に置いたのであるが誰も関心示すことはなかった。
女子の受験であり首都圏での話であるから、関西在住男子の食指は動かなかったのだろう。

彼らが親となって子に向き合う場面が訪れたときには手に取ることもあるかもしれない。
もし読むことがあれば、感銘を受けるに違いない。

単なる受験の話に留まらない。
親が子を思う親心の物語として読めて示唆に富む。

作者は中卒だと随所でへりくだるが、文章が秀逸であって内容も考え尽くされている。
思考の過程がロジカルであるし、様々な考察を経て繰り出される打ち手の一つ一つも理に適っている。
おまけにユーモアのセンスも抜群だ。

だから当然、読んで面白くドラマの原作として白羽の矢が立つのも頷ける。

読めばすぐに分かるがこの作者は相当な知者である。
その血を受け継ぐ娘だって上出来な頭脳を有しているに違いない。

知者である父がキャパある娘の結果にコミットしようと心血注ぐのであるから、いい線達する成功譚になって何の不思議もない。

常識で考えれば、偏差値41から72など、100人中後ろから数えた方が早い者が1,2を争う域に達するという話であるから、そうそうない。
たまたま親も娘も頭が良かった。
そうであってはじめて成り立つ話と言えるだろう。

大手の塾になれば一学年あたり1000人から2000人もの生徒がいる。
このうち半数近くは、何年勉強に取り組もうが大体ずっと真ん中付近を居場所とする。
ちょっとした方法論でどうにかなるような話ではなく内蔵されている才があってそこに光が当たってはじめて団子状態から抜け出せる。

現実は手厳しい。
だから甘い話が跋扈する。
それら大半はビジネストークの類だと見て間違いないだろう。

結果が出なくても頑張ることに意義がある。
そのような母性的な見方がある。
その一方で、世の荒波側は、何年も取り組んで真ん中が精一杯、それに一体何の価値があるのだという辛辣痛烈な断を下すかもしれない。

だから、そこに答えを求め過ぎないという気づき方が重要になるだろう。

21世紀に入って20年近くが経過しいよいよ時代は大きな変節の地点に差し掛かった。
世界がそう身構え始めている。

悲観と楽観が渾然一体となって、誰一人、この先どうなるのか見通せない。
勉強が大事であることは間違いないだろうが、それですべてが解決できるはずもない。

下克上受験はひとつの答えではあるだろう。
しかしそれは先々に備えるための小問の解のようなものであって、来るべき大問の解を兼ねるかどうかは分からない。

これさえあればという絶対解はなく、老いも若きも含め誰もが切り札となるSomething elseを常に刷新し携えねばならないようになっていく。
旧態依然の中途半端なレベルでなんだか達成感を持ってしまってそこに胡座をかくというのがもっとも時代錯誤な姿勢となるだろう。

自分自身の偏差値72をこそ血眼になって探さねばならない。

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Victor Habchy  “Run boy run, Burning Man”