KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

喧嘩してさえ懐かしく愛おしい

遅めの帰宅となった。
部屋に入るとわたしの寝床で長男がスヤスヤと寝入っている。

寝姿見るだけで心が癒える。

寝相悪く腕が外に飛び出ている。
毛布のなかへ戻そうと腕を掴んで驚いた。

なんという太さなのだ。
試しに自分の腕を掴んでみるが、このわたしでも痩せて貧相な部類に思えてくる。

その昔、遠い昔のこと。
当時幼児であった長男を前乗せシートに座らせ海まで自転車を漕いだことがあった。

空を横切る野鳥を指差し高架を走る阪神電車を指差し何を見てもはしゃいで喜んでいた長男の腕は、幼児であるから当然に細く小さくきゃしゃで頼りないものであった。

それが何ということだろう。
苗が巨木に育ったようなものである。

掴みごたえがあって触り心地いい。
角度を変え何度も掴んでその頼もしい育ち具合を確かめた。

いまは荒削りな若武者もいずれはそれなりパワー炸裂させる仕事人へと成長していくのだろう。
敵に回せば手強いに違いない。

そんな想像を巡らせるのが楽しくて仕方ない。

びくともせずに眠り続ける長男を袖に、わたしはひとり恒例の金曜ロードショー、映画を見始めた。
この夜は「レッド・ファミリー」。
キム・ギドク脚本製作の韓国映画だ。

北朝鮮の工作員ら4人で構成されるツツジ班は、仲睦まじい家族を装い韓国の地域社会に溶け込んで諜報活動を行っている。
祖国からの司令に従い時には裏切り者の殺害まで遂行する。

ツツジ班の隣には一般の韓国人家庭が暮らしている。
同じく4人家族。

隣家では夫婦喧嘩が絶えず、のべつまくなし夫婦が大声で怒鳴り合っている。
食べ物も着る物も粗末にする暮らしは北朝鮮では考えられず、ツツジ班のメンバーからすれば隣家家族は資本主義の害悪に染まって堕落しきった人間たちといった風に映る。

が、隣同士であるから徐々に交流が生まれていく。

ツツジ班のメンバーはそれぞれ実の家族を祖国北朝鮮に残し任務にあたっている。
隣家の家族との付き合いを通じ、メンバーそれぞれに葛藤が生じ始める。

単に家族と引き離されているのではない。
人質に取られているも同然である。

不条理な境遇以外の何ものでもないと気づき生まれた空虚感が、この偽装家族の連帯感を強める方向に作用し始めた。

しかし、そもそもが諜報活動のために編成されたチームであって、家族になれるはずもない。
不始末犯せば粛清される。
ツツジ班は隣家の家族とは異なり、各自が死と隣合わせなのだった。

北と南を横に並べたような対比のもと二つの家族が描かれ、人にとって何が本当に大切なことなのか浮き彫りとなっていく。

終盤になって映画のトーンが一気に変わって息詰まる。
序盤から中盤には醸し出されていたユーモラスな空気は一切かき消える。

ツツジ班は全員が運命に身を委ねることになる。
祖国に残した家族のため。

北朝鮮の囚人がされるみたいに手に針金を貫通させられ四人がつながれる。
漁船に乗せられるが、それぞれの足には重しが結びつけられている。
もはや死は避けられない。

最期、死を前にしツツジ班四人がそれぞれ言葉を発し始めた。

隣の家族がある日していたのと全く同じように同じ言葉をなぞって、互いを罵り合う。
罵れば罵るほど涙が溢れて止まらない。

死の際に至って、まるで本当の家族のように彼らは愛を込めて喧嘩をし、そしておそらくは胸中によぎる実の家族を思って号泣するのだった。

家族を思いながら無念の最期を迎えた無数の人々の声が時間を越えてそこに立ち上ってくるかのようであり、感涙避けられない。

喧嘩してさえ懐かしく愛おしい。
極限状況が家族の絶対性を明瞭に照らし出す。

映画をみて家族を大切に思う気持ちがこれほど強く込み上がったことはない。
必ず見ておくべき映画である。

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 En famille, Jean-Marin LEROUX-QUETEL