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KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

人として生まれたからには夢を叶えよう

このところは三食全て家内の手作りを口にしている。
朝と昼は弁当。
夜は家でキッチンカウンター越し差し出される出来たてほやほやをいただく。

ふと友人らの顔が浮かぶ。

みな何を食べているのだろう。
たとえば夫婦とも働いていたらとても料理までは手が回らないだろう。
そういう場合は出来合いのもので済ませるのだろうか。

ひとり暮らしが長かったせいでわたしのカラダは半分以上が出来合いの料理で形作られている。
これ以上はごめんこうむりたい。

スーパーなどで売られている惣菜など手に取る気すら起きない。
年齢も関係するのだろう。
カラダのことを念頭にきちんと手の加えられた料理でないと、食べ疲れのようなものを感じてしまって後味悪く調子も出ない。

食事を終え長湯しながら本を読む。
この日手に取ったのは、森博嗣さん著「夢の叶え方を知っていますか?」(朝日新書)である。

買って正解であった。
もはやわたしは中年であるが、おかげで自身の内で眠り呆けていた「夢」という活力の源を再訪できた。

一日一日やり過ごすのが精一杯の仕事人はその日常に埋没し、「夢」という語さえ思い浮かべることがない。
そのうちにと向き合うのを保留にし続け、いつの間にか、夢など自身でさえ相手にしない与太話みたいな存在になっていく。

おまけに、夢などなくても手っ取り早い代用品で世は満ち溢れている。
悪貨は良貨を駆逐するのたとえのとおり、代用品で十分足りて、それが生き甲斐にさえなっていく。

たとえばSNSなどもその一つかもしれない。
ちょっとした一コマをアップするだけで、いいねと賞賛浴びることができ、その社交辞令を集めればまるで夢が叶ったかのようなものであり、その過程をお手軽ループすることになっていく。

しかし、そんなものが自身の見たい夢であったはずがない。
見たい夢ではなく、見せたい夢を、単に見せびらかせているだけであるから、要は他者に振り回れているだけのことである。
他者の評価が原動力となった時点で、それは夢とは言えない。

筆者の考察に触れれば、夢と夢もどきが見分けられるようになっていく。

夢とは、内から沸き起こってくるものであり、それ自体が楽しいものであり、自身が心から願っているものである。
自身に内在する唯一無二のものであり、自身を高めることをその本質とするものであるから、他者の目が気になる類のものではない。

だから、自身の夢を捉えられれば幸福だ。

筆者は言う。
『自分の中に楽しさを見つけた人は、人生に余裕を持つことになるだろう。
信じるもの、目指すものがある、ということが安心感をもたらすからだ。
またこういう人は他者に対して攻撃的な態度を決して取らない。
自分が見つけたものを誇示することもない。
そんなことをする必要がないからだ』

プルル震えきて、夢を愛おしむような感情が湧き上がる。

そして本書終盤近くに、次の言葉が続く。

『夢はお金よりも頑丈で、しかも決して減らない生きる支えなのだ』
本書のうちわたしが最も感銘受けた一行である。

数百円の新書だからと侮れない。
ちょっとした要領やコツを伝えるノウハウ本に近いと思っていたが、全く違った。
これほど真摯な内容なのだとは思いもしなかった。

全部まるごと子らに伝えたいような内容であると思っていたら、あとがきにまた印象深い言葉があった。

『わたしたちはみな前人に学び、その上に立ってスタートすることができる。
世代を超えて協力し、夢を実現することができる』

そうそう、人として生まれたからには、夢を生きよう。
そして、次代にバトンを引き継ごう。
そんなシンプルな闘志がフツフツと込み上がってくる。

実にいい読書ができた。
お酒飲んで過ごすより遥かにいい。

あとは、筆者が助言するとおり、夢の実現に向けとにかく取り組み、コンスタントに取り組み、体調を管理して取り組み、節約して取り組み、とにかくやってみるだけのことである。

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Sébastien Del Grosso, Not so Alone