KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

子育て成就のための必須要件

子育てについてもその巧拙を評価しランク付けするようなことは可能なのだろうか。

たとえば子の成長に対する貢献度が親によってはA評価であったりE評価であったりといったように、親の関与の出来不出来が子の人格と相関する。
そういったことも大いにあり得る話であるように思う。

昨夜自室で「私の、息子」という映画を観た。
2013年公開のルーマニア映画である。

富裕な家庭が描かれる。
父は医師であり、母は著名な建築家だ。

ある夜、母に一報が入る。
息子が交通事故を起こし、被害者の子が亡くなった。

母は一瞬狼狽するがすぐ気を取り直す。
息子が起訴され有罪にでもなれば将来が閉ざされる。
あたふたしている場合ではない。
最悪の事態を回避するため、母は警察に掛け合い目撃者と交渉し被害者を懐柔するため東奔西走することになる。

一方の父は、お金を集め有力者に働きかける。
前線に出る母に対し、父は後方支援のような役割だ。

打てる手すべてを尽くそうと懸命な両親の姿とは正反対、当事者であるはずの息子は、上の空のように見える。
いい歳して、いかにも頼りない。

誰かが何とかしてくれる。
息子の心中を一言にすればそのようになるだろう。

親がすべて先回りし事を処しそこに乗っかってきた生い立ちが窺える。

親の心子知らずは万国共通、歴史を通じての真理だと言えるのだろう。
両親は必死だが、息子はその両親に当たり散らしさえする。

対策講じる過程で、この息子について漏れ聞こえてくる話もろくでもない。
高い教育を受けてきたようではあるが、まさに当代一のバカ息子としか言いようがない。

それなのに親はこのバカ息子が可愛くて仕方ないのだ。

わたしも人の親。
観ていて痛いほど親の気持ちが分かる。
親であれば誰だって身につまされるような話だろう。

随所で息子は反抗するが母は怯まない。
息子の恋人さえ引き入れて、母は状況打開のため前へ前へと押し切っていく。

遂には、頑として嫌がる息子をクルマに乗せて被害者宅までクルマを走らせる。
舗装もされてないようなひなびた田舎道にピカピカのBMWが入り込んでいく。

被害者の自宅前にまで到って、もちろん息子はクルマを降りない。
あくまで意気地のない腰抜けのままである。

やむなく母がお悔やみ述べるため被害者家族のもとを訪れた。

この映画のここからが凄いところであるが、母はお悔やみ述べつつ、無自覚にも自分の息子の自慢を始めてしまう。
言葉を重ねれば重ねるほど、被害者を前にしてさえ、息子を自慢に思う気持ちが溢れ出てくる。

観ていて呆れ返るが、親というものが有する哀れな一面がこのシーンに凝縮されているように思えた。

頼み込んでも埒明かず、母は被害者宅を辞しクルマに戻る。
息子は後部座席に座ったままだ。

そこに被害者の父親が現れた。
クルマの後方に立ち、じっと視線を送っている。
息子は気配を感じ、身を固める。

が、しばらくの沈黙の後、息子は自らクルマを降り被害者の父と向き合った。
そして息子は泣き崩れた。

息子が自分の足で現実に歩み寄り、自らの現実に対峙した瞬間であった。

このとき母はようやくにして、子育ての最も大切なステージを終えることができた。
そう言っていいのではないだろうか。
独善的であったとは言え、彼女は母としての務めを精一杯果たした。

息子は、自らを原因とする悲痛を目の当たりにし、おそらくは他者の気持ちが少しは分かる人物へと成長していくのだろう。
親に対し優しい思いやりも見せるようになるに違いない。

そう予感させるラストを見つめつつ、わたしも高みの見物とはいかないと肝に銘じるような思いとなった。

愛情注ぐ分だけ、その注ぎっぱなしが子を愚かにしてしまうのかもしれない。
何でも与えて、その与えっぱなしが、有り難みに対する感謝の念を薄れさせ、不遜を肥大させることになるのかもしれない。

きれいごとだけでは語れない、子育ての難しさを思い知らされる。
必死な何か、懸命な何か、悲痛なもの、こういったことを通じなければ、大切なことは伝わらない。

親も一緒になって汗まみれ泥だらけになることが子育てを成就させる上での必須の要件なのだろう。
巧拙といった上滑りな言葉の出る幕はないようだ。

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Frightened Finnish villagers taking cover in the woods during a Russian air raid, 1940. ©Carl Mydans