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KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

待機してる間に浦島太郎

食事を終え三階の自室に向かう。
渡り廊下を歩いていると吹き抜けの下、二階の食卓に座る長男と目が合った。

「カラダ大事にしてや」
息子が言った。

おまえもな。
わたしは冗談めかして返したが、自分でも気づかぬうちそろそろ健康を案じられる歳に差し掛かったのかもしれなかった。

しかし内面は依然変わらず十代のまま。
どう頭を捻ってもその落差を埋める理屈が見つからない。

先日きょうクリ院長もブログに書いていた。
47歳の誕生日を迎え、どうやらアラフィフになったようなのだが、全くピンとこない。

同級生であるわたしについても同じこと。
小学6年、阪神受験、その頃玉造駅のホームで話したきょう少年は、そのまま今のきょう先生であり、もちろんわたしもそのまま今に到っている。

これは何も特別なことではなく、現代を生きる中年おじさんにアンケートを取れば、各自の実感年齢は多少の誤差あれ大半が十代であることは間違いない。

つまり、驚嘆ではあるが、わたしたちは我が子と変わらぬ年格好の自我を有しているということになる。

であっても、曲りなり父である。

旅すれば場を仕切り、いつも早起きして仕事もし、欠点が山ほどあっても何だか頼りがいあって、父は父、その背中はでかい、というようなものだろう。

我が家空間を横切る父たるわたしは、子らから見れば、わたしが思う以上の男っぷりであるはずなのだ。

が実際は、蓋を開ければ、彼らと五十歩百歩、同じような青い実がそこに佇んでいるのであった。

青い実だから、いついつまでも発展途上。
この期に及んでも未来はもっと良くなると信じ、自分の能力に更に磨きがかかって、いつか本気出す日がやってくる、そう確信している。

もう歳だ、無理がきかないといった話に相槌打つのはあくまで社交辞令。

この先もずっと先も折々の景色を楽しみながら、果てしなく仕事し続けるつもりで、ラストスパートのタイミングはまだ先だ、そんな心象で過ごしている。

しかし外見は嘘がつけない。
子らから見れば、わたしがどう取り繕ったところで、黄金の十代にはほど遠く、いまは良くても生先短く、ガス欠の日を予感させる域に近づいているということなのだろう。

だからこそ「カラダ大事にしてや」との言葉が発せられる。
せめて大学を出るまでのあと数年、しっかり頑張ってもらわないと予定が狂う。

視点を変え、子らの目線で時間を捉えてみる。
一年一年がかけがえなく、わたしのようなおっさんが思う大雑把な一年一年とは訳が異なる。

遠い先々を一緒くた漠然と感じていた際の大らかな楽観は影を潜め、時間の大きな道幅はどこへやら、張り渡された綱を凝視するような気持ちになっていく。

おっさんになって時間の感覚が雑になっていただけのことなのだ。

よくよく考えれば、何歳になろうが、どの一年も必死のパッチ。
どの一年をとってみても、山あり谷あり。
キリギリスやホトトギスのように歌って騒いでニコニコ過ぎていった年など一切ない。

それなのに、同種の時間を過ごすうち感覚が麻痺して、まるで浦島太郎。
時間はいくらでもあって、何度でも同じことが繰り返されるというループに入って、自身の年齢を刻む体内時計が用無しとなった、だからわたしはまだ十代といったような時間の埋没感が生じるのではないだろうか。

そうであれば、綱渡りなのだと時間の本質を喚起させられるのも大事なことだろう。
ご用心ご用心と髑髏を掲げて往来歩いた一休宗純の話のようなもの。

漫然と同じ時間を過ごすだけなら垂れ流し。

目の前の時間をキリリ味わうことで、ようやくはじめて時間が蓄積されていく。
自分の時間を謳歌するにもカラダが資本。

君が見上げた渡り廊下の中年は、君の言葉で大事なことに気づけたのかもしれない。

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Arthur Leipzig :Watching Santa, 1944