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KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

画面の外に着目

風呂をあがり窓を開けたままクルマを走らせる。
夜気の加減がちょうどよく、風の鳴る音に気持ちが安らいでいく。

何の装飾もない無意味な音が単調なリズムを刻んで、なぜなのだろう心地いい。
ステレオから流れる音楽の方が余計なノイズに思えてミュートにした。

安心しきってどこか遠くへ運ばれていくような、幼い頃の記憶がよみがえる。
そうそう、そのときもこんな感じの音だった。

単なる日常音も捨てたものではない。
耳を傾ければ、どの音も昔なじみの懐かしい面々。
だから当然、居心地がいい。

一日の任務を終え、解放されて湯につかって風にあたる。
こんなことが幸福で、実はこんなことこそ幸福なのだと伝えるために日記に書く。
手軽で身近、いつだって手の届くところにそれはある。

小さな世界で常に顔つき合わせているかのようなSNS時代、現実感のフレームが手のひらサイズの画面のなかに移行しつつあるとも言えるだろう。

しかしそこは虚実綯い交ぜの空間であって、見た目のとおり薄く平たく奥行きもない。
有益な情報交換が為される一方、負の側面に着目すれば人の感情の墓場のような様相を呈し、長居すれば人間観がいびつになってもおかしくない。

目を凝らせば、過剰な自己愛や妬み嫉みといったあさましいような思惑が行き交って、その「現実感」に身を置くのだとしたら、そこは当然目先の視座しかないような世界でもあるから、ごちゃごちゃせせこましくて息苦しい。

今後誰であれSNSとは切っても切れない社会となるのだろう。
だから、それら負の要素について十分心得えたうえで、半歩だけ関わってあくまで重心は画面の外に置くと決めるのがいいだろう。

画面の外は広大無辺。
画面のなかではみみちく閉じてしまう思考も、そこから目を逸らせばあら不思議、ものの見方が長く大きく様変わりする。

たとえば、風呂上がり。
クルマの窓を全開にし風に吹かれれば、画面のなかどこを探しても見つからない世界がすぐ眼前、物惜しみもせず広がっているのだと知ることができるだろう。
そして、そういうところにこそ他の誰のものでもない自分固有の幸福が見出だせると思うのだ。

画面の外に着目、である。

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Brassai, Paris from Notre Dame 1933.