KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

もっとも保守的だった受験の世界に風穴が開きはじめた


今年巣立った西大和生は全般的にやや数学が弱かった。
あとひと伸び、あとほんの少しというところで大学受験の時期を迎え、結果苦戦を強いられることになった。

そのような話を耳にした。
西大和と同様、大学合格実績が今年芳しくなかった星光生は英語に若干の弱みがあった。
互い良い面を補完し合えれば英数とも盤石となって結果は様変わりしたのだろうか。

関西最上位に灘が来て、その後ろに甲陽と東大寺が続き、星光と西大和は第三列に位置する。
毎年の中学入試においては後列にあるほど素質ある生徒の取り込みに際し不確定要素が増す。

そして力のある生徒を取れるかどうかが大学合格実績を左右する主要素となる。
学校の働きによる影響はせいぜい副要素と捉えられるべきものだろう。

今回の原因を振り返るにあたっては、6年前の中学入試がどうであったのかについて検証が為されるべきであろうし、そのうえで当該学年についての指導の成否や特殊事情について点検が為されるべきなのだろう。


東大寺は相変わらずの安定感である。
33期の子も何人か通い知人親戚にも東大寺生がいるが、かつて我が子が中学入試を控えた際に調べ耳にしたのは「ほったらかし」の一語であった。
何もしてくれないと誰もが口を揃えるものだから、ネガティブな印象を抱かざるを得なかった。

ところが、異口同音に述べられる「ほったらかし」がどうであれ、東大寺の偏差値は高く維持され、層の厚みは揺らぐことなくコンスタントに生徒を難関大学に送り込み、陰る気配は一切見えない。

実はそのほったらかしこそが東大寺の極意なのだろう。
極めて優秀な生徒に対しては余計なことせず競い合う環境さえ整えておけばいい。
それが最大効率を生むと学校が知って、絶妙の匙加減による、一見ノウハウには見えない高度な管理が行き届いているのに違いない。

その点、入学した途端、質量ともにぶっちぎりハイレベルな課題を雨嵐のごとく降らせる甲陽とは好対照である。
で、甲陽も抜群の大学実績を維持している。

つまり、相当な出来映えの生徒を集めていれば、放任しようが高いハードルを課そうが、どのみち結果につながるということではないだろうか。

第三列であれば両校と比較したとき素材の争奪戦において少なからず劣位に立たされるということは否めない事実だと言えるだろう。


しかしそうであっても、最優秀な生徒の数についてはジップの法則が成り立ち、選択肢上に載った場合の選択率についてはパレートの法則が成り立つであろうから、必ず一定割合、最上位校の生徒に何らひけをとらない生徒が入ってくることになる。

つまり、ナンバー1の学校に12人の超優秀者がいるとすれば、ナンバー2には6人、ナンバー3には4人、ナンバー4には3人の超優秀者が在籍していると見通すことできる。

また、選択し得る学校としてA校とB校が競合する場合、A校に優位性があったとすれば10人のうち8人はA校を選ぶにしても、少なくとも2人はB校を選ぶ。

最強の学校があったとしても、すべての最優秀者を取り込める訳はないということであり、だからつまり第三列であっても最強の学校同様に最優秀者らが希望を胸に入ってくるのであり、学校としては最強校に劣らぬよう最善尽くし彼らを遇する責任があるということになる。


余談となるが、上記のような分散が生じるのは自然の摂理というしかなく、合格者構成についてもあてはまることだと言えるだろう。

合格定員のうち8割は鉄板の実力の者らが占めるが、残り2割は蓋を開けてみなければわからない空白地帯になるといったようなことである。
そこに潜り込むことは要は運と確率の話であるから、うまくいけば水準以下であってもチャンスはあるということになる。

その一方、入学後も主構成の8割と低空飛行を余儀なくされる2割が生じ、合格して喜んだのも束の間、苦渋の学校生活を強いられ最悪の場合には学校を去ることになる、ということも頭に入れておかねばならない。
こういった不遇のマッチングは、どの学校のどの学年であっても毎年必ず起こることである。

だから何がどうあっても入学後にその2割に入らないレベルの学校を子に勧める、というのも親の見識と言えるだろう。

星光と西大和については、今年の大学合格実績が悪かったせいで、来年の中学入試では2割の空白地帯が拡大し、入りやすくなるのではないだろうか。
実際のところ、両校とも現在の高3以下、後続の学年のレベルは非常に高く、また今回の結果を受け大学入試に向けての取り組みを強化させていくであろうから、来春の中学入試は両校を目指す受験生にとって、お得感ある年度になるように思える。


大学合格実績を受けて話を進めてきたが、その一方、根本的な話として、いつまで東大京大の人数を優劣の絶対指標にし続けるのだという切り口で考える視点も必要だろう。

右肩上がりの高度経済成長の時代はとっくに終わり、いまや人口が減る一方で高齢化が急速に進んでいる。
人工知能を構成要素とする情報化の進展は人知を超える勢いで目まぐるしく、政治的民族的摩擦を各地で起こしつつ相変わらずグローバル化への動きも止むことがない。

そんな激変のプロセスを前にしては、やれ東大やれ京大という言葉が旧態依然とした古い価値の残骸のように響きはじめつつあるとも言えるのではないだろうか。

伝統的な価値を重んじる保守的態度を保ちつつも、21世紀が本格的に幕を開けようとするいま、次なる新機軸、別の指標がデザインされるべきなのであろう。

たとえば現在の受験システムにおいては、10代の思春期に点数を使って目一杯エゴを競い合わせているという側面がある。
それに明け暮れ、それを善として勝ち抜いた人材はもちろん優秀ではあろうが、社会的な存在としていったいどれだけの評価に値するのだろう。

自分のためにという動機によるエネルギー出力よりも、そこに世のため人のためというリアリティが付加されたほうが、よほどパワフルで大きなアウトプットが期待できるはずである。

たいへんに優秀な者らが集積する学校が狭い関西の地に軒を並べ、何十年にも渡って人材を輩出し続け、しかし、関西自体は何となくパッとせず寂しいような雰囲気に覆われている。

何か歯車が噛み合っていないのではないだろうか。


彼ら関西優秀勢の力量については、模試の結果などから推し量ることができる。
それら関西一円の難関校の生徒のうち半数は、高校一年の冬の時点で、関西定番の私立大学を受ければパスできる。
が、そんな彼らが努力を続けても高校三年の冬に東大や京大に合格できるかどうかは分からない。

つまり、同じ大学であってもそれだけの学力差がある。
その差を可視化できれば、巨大な建造物規模のものとも言えるだろう。

しかし、そんなせっかっくの巨大な建造物も、まさに無用の長物と化し、社会に出て何か有用な価値へと結実しているようには思えない。
せいぜい情報処理能力といった個人的な機能に寄与するのみであり、いわば凝縮的に精緻作り上げられた能力が廃棄されているも同然で、竜頭蛇尾にもほどがある。

その顛末の虚しさを前もって知れば、ハードな受験勉強には最初っから背を向け、要領よく勉強こなして関西定番の私立大学を目指し自身の固有のエネルギーはもっと大事なこと特別なことに注ぎ込むと決める方がはるかに合理的、そういった見方が十分成り立つ。


そして、ここにきて、ひとつ示唆的な動きが見えた。
大袈裟に言えばもっとも保守的な世界に風穴が開きはじめたようなものとも言えるかもしれない。

さすが開成。
英米の超一流大学に現役で20名もの合格者を輩出したのだという。

そもそもが超優秀な彼らは10代終盤から20代にかけ、悪戦苦闘必至とも言えるくらいのハードな知的活動を彼の地で繰り広げることになる。

こういった人材が続々生まれれば、日本の若者のエネルギーのペース配分と力の入れどころの時期が今後変わって、無為かつほぼ無目的に濫費された能力が、有為な行き場を見出す動きにつながっていくことになるのではないだろうか。

自分のためだけの無為な建造物を作ることから解放され、世のため人のため自分のための建造物の築造に着手できるとしたら、その方が間違いなく幸福であるだろう。

開成を起点にし、後続の若者にとってのロールモデルが数々誕生していくことになるのだと期待したい。

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Pierre Jamet, via Expo Photo.