KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

いったい何と戦っているのだろう

大阪下町育ちであり、親も輪をかけてのコテコテ生粋の下町っ子。
なおかつ別段東京などで暮らした形跡もない。

それなのにそんな相手から大阪弁とはまるっきりトーン異なる山の手言葉が発せられると心持ち耳に障って居心地悪く感じられることがある。

実際もし山の手言葉のネイティブが耳にすれば、そのような何か別物に擬態したような言葉遣いはかなり奇異に響くことだろう。

誰であれ環境に適応するため一定の社会性をまとい、多かれ少なかれ同化する。
かしこい人はたくみにその場のコードを読み取って、まとい具合を自然な感じで加減する。

コードを無視したり軽視すると場違いになって扱いにくい人となり、反対に過剰適応した場合は演出じみた不自然さがお里違いを露呈し何だか気の毒な人となる。

確たる居場所を有する大人であれば、何もその場のコードにおもねる必要はないので、「扱いにくい人」に甘んじて堂々そこに滞空するだろう。
気の毒な人となるよりはるかにマシだ。

先日、誰かが言っていた。
ある種の勝ち気な女性は相対的世界の呪縛から逃れられない。

常に目の前の誰か、頭の中の誰かと比較し競争し合っているから、戦火の止むことなく気の休まる暇がない。

人様から見れば好環境に置かれていても、そんな状態自体には価値がなく、大事なことはあいつに勝って、こいつにも勝つこと。
何かを得るだけでは済まず得た上で勝たねばならない訳であるから、大変だ。

擬態のへんてこりんも、誰かと一戦まじえて余計に肩に力入っている最中なのだと思えば納得がいく。

そうと分かれば、関心は次に移る。
一体誰と戦っているのだろう。
それが分かれば、その人についての理解が一層深まるのではないだろうか。

そのうえでわたしはたちは学ばねばならないだろう。
誰と戦おうが、所詮は一過性の相手。
重き置く必要は全くなく、負けたところでどうってことない。

時は過ぎ舞台は変わる。
資源は温存してこそここ一番で威力を発揮する。
のべつまくなしワンワンキャンキャン吠えるなどあってはならないことだろう。

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Vassilis Tangoulis, Starlight 2014.