KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

「わたし」というその場限りの現象

お盆休み直前だからだろう。
電話の数が減り日々の業務がシンプルになって御しやすくなる。

静かであって心穏やか。
休暇の前のこの間延びした雰囲気はなかなかいい。

業務を終えいつものとおりジムで汗を流し近くの風呂に入ってから帰宅する。

こんな夜は映画を観て過ごすのが一番いい。
『手紙は憶えている』をセットした。
カナダ映画である。

主人公は老人。
認知症を患っており、妻を亡くしたことさえ一眠りすれば忘れてしまう。

この老人ヨブが復讐に向け立ち上がった。

70年前、アウシュビッツで家族をナチスに殺された。
寿命尽きる前に、市井に紛れ生き延びるナチスの残党をなんとしても見つけ出さなければならない。

親友であるマックスが、ヨブを鼓舞する。
カラダの自由が利かず自らは動けないマックスが記憶力心もとないヨブのために手紙をしたためた。

そこには、復讐のための武器の入手先から、残党の居場所、そこへたどり着くための行程などが事細かに書き記されている。

ヨブはまなじり決して老人施設を抜け出し、復讐のための旅に出た。
朝目覚め記憶を失っていてもヨブはその手紙によって自らの任務を喚起することができる。

そしてとうとうヨブはナチス残党の元にたどり着き、ラストシーン、観ていたわたしはあまりに意外な結末に呆気に取られた。
その様は、突拍子もないフェイントで抜き去られ呆然と立ち尽くすディフェンダーの間抜け面というしかない。

呆然としたままわたしは自分が自分であるところの自我について考え込むことになった。

映画ではマックスが書いた「手紙」が定点となってヨブの同一性は保たれた。

わたしたちも同様に、そういった「手紙」の類をよすがにし自我を維持していると言えるだろう。

だから老いれば、やがて「手紙」の読解力は落ち、または読み間違い、あるいは取り違え、少しずつ少しずつ、異なる自我となっていっても不思議はなく、それ以前にそもそもの話として、自身では確固明晰だと思っているこのいまの自我さえも「手紙」をきちんと読めているのかはなはだ怪しく極めて心もとない産物であるといってもおかしくない。

「わたし」というものの不完全と不確かさを痛切に思い知らされる映画であり、その「わたし」という概念の頼りなさを思えば、日常だけでなく死後の世界といったイメージにも再考促す話であるとも言えるだろう。

こんないい加減な成り立ちの移ろいやすいものが死んだ後まで残って何かを想うなど考え難い。

やはりどうやら、わたしという自我は、その場限りの一時的な現象。
命が尽きれば消えてなくなり、「わたし」という窮屈から解放される。
そこに待つのは広大無辺な無。

まもなくお盆休み。
無ののびのび感が、芯の凝りのようなものを和らげていく。
f:id:KORANIKATARUTOKIDOKI:20170806112909j:plainAra Güler, Das Auge Istanbuls.