KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

パワーと実用によってそのフォルムに美が宿る

夢中で陶器を見て回る家内とわたしは行動を別にした。

途中までは関心持とうと努力したでのあったが、見れば見るほどどれもこれも似たようなものに見えて意識が遠のいていく。

 

半時間もせぬうちに飽いてきた。

広場の向こうにグルメ屋台が並ぶのを見つけ、わたしはそこに吸い寄せられた。

 

朝のうち残った雨もすっかり止んで晴れ間も見える午前11時。

陶器を求めて訪れる人は増え続け、マーケットは一本調子で活気づいていく。

そんな様子を遠目にし、わたしはタイカレーをスプーンですくって場内に流れるビートルズに聞き耳をたてていた。

 

屋外でカレーを食べるなど何年ぶりのことだろう。

明るい空のもと聴き馴染んだナンバーを耳にし食べるカレーはとびきりうまい。

 

ではうどんはどうだろう、フランクフルトはどうだろう。

賑わいのなか屋外で食べれば野生の味覚が起動するからであろうなんでも美味い。

意図せずして、わたしは味覚の真実に気づくことになった。

 

家内が買物する間、わたしはポーターとしての体力を涵養していたようなものであった。

 

各所で買い置きされた陶器を引き取り、長い石段を降りクルマに運ぶ。

骨折りであったが、家内がほんとうに幸せそうな顔をしているので報われた。

 

引き続いて目指すは雲井窯。

土鍋屋だという。

 

ナビの指示に従って走るが、目指す工房は山道の脇道にひっそり佇んでいるので二度ほどそこを通り過ぎることになった。

土鍋の看板があってそれなりのショーウィンドウでもあるのだと思いこんでいたのが間違いだった。

 

店主に電話で聞いてたどり着けば、そこは一見、ごく普通の民家。

 

門をあけ中に入ったところに別棟があってそこに土鍋が陳列されていて目を見張った。

骨董品揃える美術館といった趣き。

 

土鍋が鎮座していたのは、山道側道にある民家の門の向こう側。

奥の奥に秘せられているだから迷って当然という話であった。

 

家庭料理専門ではあるが家内も料理人の端くれ。

あれこれ土鍋を手にとって店主を質問攻めにし始めた。

 

土鍋に関心がない上、専門的な話まで繰り広げられればわたしは場違い。

ではごゆっくりと言い残しひとりクルマに戻った。

 

半時ほど過ぎ、満面笑みの家内が門から出てきた。

収穫あったようである。

注文製造で二ヶ月後に送られてくるらしい。

 

冬にかけご飯が美味しくなる。

鍋料理の頻度が増え、家族団らんにも一役買うことになる。

そう思うとわたしも嬉しいが、料理人である家内はもっと喜んでいる。

 

買物についても、いわば外向的な買物と内向的な買物といった2種類が存在するのだろう。

 

外に見せてアピールすることを指向するのが外向的買物だとすれば、一方の内向的買物は内の充実を願って為される買物と区別できる。

 

外向性が極端に強ければ、内を犠牲にし冷や飯食べてどこにも行かず耐えて我慢し、資源をすべて見える外側に注ぎ込む。

その逆だと、外に対して無頓着となって地味で華なく一見貧相にさえ見えるが、一皮めくれば中身濃厚、充実の暮らしにエネルギーを投入する。

 

外向性と内向性、どちらの傾向が優勢であるのか、何を大事にしアクセルとブレーキをどう踏み分けるのか、人を見る際にはそのバランス具合を考慮しても無駄ではないだろう。

特に伴侶に関しそこを取り違えると生涯の悔いとなりかねない。

かなり重要な切り口であると心しておいた方がいいのはないだろうか。

 

一つ付け加えれば、買物についての外向と内向は、相並び立つというよりは成長のプロセスの前後を成すとも言えるかもしれない。

 

まずは外向性が発芽し一段落、洗練の知となって内向性に腰が落ち着く。

そういった時系列の物差しを思い浮かべ、どの地点にある人かプロットすることで見る目は養われていく。

 

家内によれば、雲井窯で手に取った土鍋はどれもこれもたいへんに美しいものだったという。

土鍋から生まれる料理が皆を笑顔にしハッピーにする。

底知れないパワーと実用が、分かる人は分かるという形でそのフォルムに美をまとわせるのだろう。

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信楽雲井窯工房  平成29年10月7日正午