KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

動く人が好ましい

トレッドミルの画像を注視して走る。

インドの国宝的スター、シャー・ルク・カーンが華麗に踊り、そのアップテンポに引っ張られるようにしてわたしは足を次々前に繰り出していく。

 

そのように視線は前方に固定されているのだが、それでも、隣で走る人影がどうしても目の端に入ってくる。

 

右隣ではすらっとした細身の女性がリズミカルに走っている。

一方左隣ではどてっとした太目の女性がドタドタと足を踏み鳴らしている。

 

その左右の不均衡がわたしのバランス感覚を切り崩す。

 

わたしの右半身は軽やか颯爽、そよそよと草原の風が吹き渡っている。

左半身はその反対。

何かが絡まって暗い地の底へと引きずり込まれるかのようであって重苦しい。

 

「すらっ」と「どてっ」がせめぎ合う国境地帯にわたしは置かれたようなものであり、インド映画のダンスシーンなどすっかり霞みはじめていた。

 

右側の清々しい流れは生の活力そのものを体現し、だからその世界と間近に対比されれば、左側は淀んだような印象があってどうしてもネガティブに映ることになる。

 

なるほど、淀み。

左側の世界の成り立ちは、その一語で解き明かすことができるのかもしれない。

 

おそらくは、楽をしようといった他愛のない考えがあらゆる場面で顔を出し、それが積もりに積もって、淀みが目に見えるかたちで造形されていったのだろう。

 

淀みは淀みを集め自ら動くことなく、沈滞を増幅させるという悪循環に陥っていく。

 

わたしの左側で走っていた人は、これ以上の悪循環を断ち切るため一歩を踏み出したと言え、近いうち、草原の風が吹き渡る右側のような人へと変貌していくのだろう。

動くべし、とのカラダの叫びがようやくにして彼女に届いたに違いなかった。

 

やはりどうやら動くことが自然の摂理に適って、動く人が好ましい、ということになる。

淀みを背負うのは、本人にとっても周囲にとっても何かとたいへんなことだろう。

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Alexander TkachevWhen the trees were tall 1975.