KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

働くという点で同じ側

ジムを終えての風呂上がり、なか卯に寄った。

午後8時過ぎにしては混み合っている。

嫌な予感はしたが構わず空いた席に腰掛けた。

 

どうやら給仕する女性は新米。

しかも一人。

 

すべての動きがぎこちなく、局所にしか目が届いてない。

だから全体見渡せず、あちこち流れが滞る。

 

入店の順番だけでなく、今来た客と食べ終えた客の区別もつかないようだった。

混み合う訳である。

 

わたしが選んだ生姜焼き定食の食券には20時22分と印字があるが、20時45分を過ぎても目当ての品の登場する気配がない。

その間、返金求めて帰っていった客もあった。

 

てんやわんやで孤立無援、なおかつ、ねめつけるような不機嫌な視線に晒される。

女性店員に手を貸す機転の客などおらず、たかが数百円で得た大義を盾にこれみよがし苛立ちを募らせる。

 

彼女の立場になってみれば苦行以外の何ものでもないだろう。

その姿に腹が減るより胸が痛んだ。

 

ふと自分の女房がそのような境遇であったらと想像してみる。

耐え難い。

女房には楽をさせてあげるのが亭主の役目、昭和生まれの男にはそんな固定観念がある。

過酷な労働に晒されるのは男の方であって、その反対であっていいわけがない。

そもそも骨と肉の厚みからして造りが異なる。

 

が、いまや平成でさえ幕を閉じつつあるのであって、昭和の固定観念など遠い過去の遺物と化した。

 

個別の事情で言えば背に腹は変えられず、時代背景として言えば、各所あらゆるところから労働力を調達しないと社会が回らないという状態に立ち至っている。

 

朝の通勤風景、街の至るところ、早朝から深夜まで。

当たり前に女性の姿があって、ご年配の方の姿がある。

 

いろいろな場所でいろいろな人が役割を担って、一生懸命頑張っている。

互い励みになるような話であって、そこに連帯感のようなものさえ見いだせる。

 

みな、頑張っている。

わたしも頑張ろう。

大勢としては、素直前向きな気持ちが醸成される。

 

働くという点で同じ側に立つ身。

そのような考えが共有されれば、社会はもうちょっと寛容で過ごし良いような場所になるのではないだろうか。

 

もちろん、働かぬ側であっても同じこと。

SNSなどでご機嫌麗しく皆でじゃれ合う時間のうちの一瞬でも、働く側の身になって何かを想う知性があれば、ごく当然に節度が生まれて身を慎み、胸を悪くする人の数はぐっと減ることになるだろう。

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Kurt HuttonA woman looks longingly at the array of bread and cakes in the window of a baker’s shop in Wigan, 1939.