KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

比較対照合戦のモノとされたが最後

子ども時分には、誰かが持っているものを欲しいと思うこともあった。

例えばアディダスのジャージ。

 

小学生の頃、ジャージが流行った。

当時、祖母は衣料の行商を生業にしていた。

それでわたしと弟は祖母にせがんだ。

 

だからジャージを買ってきたとの報せを聞いたときには歓喜した。

 

が、歓喜は一瞬で消沈に変わった。

祖母が問屋で仕入れてきたジャージには線が二本しかなかったのだ。

 

今もそうであるようにアディダスには三本の線がある。

三本なければ人ではなく、わたしたち兄弟はその二本を恥ずかしいと思った。

 

しかしそんなことは、自我の未熟な子ども時分だけのこと。

誰かが持っているモノに対する憧憬やそれとセットで生じる引け目のようなものは成長とともにかき消えて、モノで心動かされるようなことなど全くなくなった。

 

だからもし祖母が生きていて今度また二本線のジャージを買ってきてくれたなら、喜びはしゃいで袖とおし、わたしは弟とともに祖母を連れ街に繰り出すことだろう。

 

モノ自体よりその由来の方がはるかに大事、いまのわたしはそう思う。

第一、大の男として日々格闘するなか、モノなど端数も同然で、そこに焦点あてること自体があり得ず、必要なものが必要な分量あれば後は不問ということになる。

 

そんなことを寝起きの頭でうつらうつら考えているうち夜が明けた。

最初に朝の到来を告げたのは雀たちであった。

雀の発声を合図に様々な野鳥が鳴き始め、まもなく真打ちウグイスが登場し、別格の歌声で主役を張った。

 

それらさえずりに耳を傾け朝の静けさに心潤す時間は最上である。

野鳥らが交互さえずるミニ演奏会を遠くに聞きつつ、頭はさっきまでの雑念へと戻っていく。

 

大人であっても誰かのモノに心動かされる感性の人は少なくないのだろう。

 

誰かと比較し自らを評価するという思考プロセスを常套とする人は他人の影響を受けやすく、だから他人のモノにいともたやすく反応するということになってしまう。

 

他人との比較で皆がご満悦となるのであれば世界は恒久平和に恵まれるだろうが、必ず誰かに負け誰かに及ばず誰かに劣るのだから、そんな思考プロセスを回し続けると、不幸が無際限に発見され続け、それで生じる怨嗟の叫びは、小鳥のさえずりとは大きく異なる類のものとなっていく。

 

人の思考癖は簡単には変えられない。

たまたま居合わせ巻き添え食わぬよう、近寄らない、というのが最良の対策ということになるだろう。

 

周囲に実例が幾つもあるが、誰かと張り合うかのような持ち物趣味の人を選んでしまうと不幸が始まる。

凡人である君たちの手に負えるわけがなく、比較対照合戦のモノとされたが最後、静けさとは無縁、鳴り止まぬノイズの世界で耳塞ぐ日常を余儀なくされることになる。

 

静けさが標準仕様となる暮らしが望ましく、幸不幸はその一点にかかっていると言っても過言ではないだろう。

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Pierre Boulat, Drugstore des Champs Elysées, Paris, 1964