KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

さすらいの風来坊

小学校のプールの話。

泳ぐ距離を競い、最も長く泳いだ上位グループが表彰されるゲームがあるという。
足が地に着くとアウトで、その場合すぐにプールから出ないといけない。
泳ぎ続けるサバイバルゲームみたいなものだ。

子供に聞いたところ、ほぼ100%の児童が、足が地についたところで自己申告し、プールサイドにさっさと引上げる。
そんな中、たった一人、足が地についても、知ってか知らずか、おそらくは知らん顔して必死に泳ぎ続け、何人かに指摘されるも、お構いなしに力泳し、遂には入賞グループに滑り込んだ児童がいたという。

それが大問題となった。

まず児童の間で、その子が吊るし上げをくった。
「足が着いたのに、何で泳ぎ続けてん」

教師も出てきた。ヒートアップする子らの諍いをとりなし諌めるわけではない。
嘘はよくない、不正はダメだ、と吊るし上げに加勢し始めたという。
多勢に無勢、教師と児童に責め続けられ、その児童は泣き始め、皆の前で、反省の弁を唱和させられ、今後そのようなことは二度としませんと誓約させられた。

足がついたら自己申告しなさい、というのは異を唱えがたい正論だ。
しかし、そのプールの様子とその後の問責の模様を想像して、慄然とする。

どんなガキ大将もわんぱく坊主もごんたくれも、足がついたら、自らすぐに手を挙げ、リタイヤしていったという。

そこがプールでなく、本当の生存競争が繰り広げられている場だと想像してみる。
日本人だけでなくヒスパニック系、アフリカ系、アジア系、アラブ系その他世界列強の猛者が激闘する戦乱の地。
あっさり自ら率先して白旗上げるようでは、ことごとく日本人から最初にアウトさようなら、また会う日まで、というより、また会う日はありません、みたいな見るも無惨な結果になるのが明白だ。

そんな場では、足がついたのに、素知らぬ顔して、平然としらばっくれて、必死に泳ぎ続ける、というしぶとい何かが不可欠なはずなのだ。
正否の問題ではなく、生死(サバイバル)の問題として。

学校の話を子から聞くにつけ、皆があまりに教師の言う事を聞きすぎると感じる。
教師の寵愛を受けんがために、自ら進んで積極的に服従していっているようにさえ見える。
そして、教師の覚えめでたい立場を得た後は、その手先となって、自発的に「他の未熟な児童」の監視に励むようになる。
出来の悪い百姓を管理するお代官様みたいな機能を果たし、見事、封建的な恐怖政治が完成していくのだ。

もう一つ、学校の通学路の話。

通学路に交差点がある。
交差点まで細い歩道を直進し、少し左手に大きな道路を渡る横断歩道がある。
細い歩道から横断歩道へと踏み出す際に、左折するのだが、左内側に私有地があって、自然に歩くと、その私有地をちょいとかすめて歩く行き方になる。そこを横切ると少しだけショートカットにもなる。

何より、交差点へ続く道路は狭く、左折の際、内側に入ることで、接道面から遠ざかるので、安全面でも好ましい。

しかし、たまに通学路の監視にくる小学校の教師はそこで、大声で叫ぶというのだ。
「そこは私有地や、おまえら通ったらあかんねん、人の土地やぞっ!!」
叫びつつ、列なす子らを狭い接道面側の道へ力づくで押し返す。

私有地であることを主張するような柵もロープも立て看板も何もない。
舗装の色の違いで、道路と私有地の境界が分かるという程度である。

通学の際、小学生が少し斜めに横切るくらいで、土地の所有者が何か権利を害されたと抗議したり問題提起するとも思えない。

こういった指導を徹底する結果、その教師の考え方を内面化したような児童が、そこをひょいと二三歩またぐ児童を発見すると、同じように叱責し、終わりの会で、そのことを教師にあげつらい、「正規ルートを数歩外れたさすらいの風来坊」を皆でよってたかって粛清するというメカニズムが生まれる。
声つまらせ肩ふるわせて泣いて反省するまで責めるという。

終わりの会では、児童は、膝の上に手を置かねばならず、机の上に手を置こうものなら、鋭く痛罵される。
実社会においては非論理的でひとかけらの合理性もないような教師の思い込みが、「それでは先生、お話お願います」という級長の合図のもと、延々と繰り広げられている。
教師は、その訓話こそが、児童の成長を促す、最も効果的な方法であると、心底信じている。
なーんちゃって、と自己相対化できるような知性がない訓話は、狂信でしかないと児童には分からないので、圧政のもと、いとも簡単、無明のまま教師の考えに迎合してしまう。洗脳としか言えない。

ルールをまるで無視して無軌道丸出し、端から端まで不服従、では困るが、無条件に付和雷同し積極果敢に服従するメンタリティも非常に危うい。
長じた後も何かにずっと服従し続ける人間になってもらいたいと望む親はいないだろう。

そんな教祖みたいな教師にあたった場合には、さすらいの風来坊のように、後ろで舌出して、ウソも方便、間に合わせでちょっと服従、なんちゃって〜、というような便宜主義的に対応できる内面形成も重要ではないだろうか。そういう風であっていい、と教えて上げることも大事なことだ。

当たり外れは世の常、教師にも当たり外れがあっても当然。
その教師を問題視したところで、どうなるもんでもない。
教師の側の改善を期待したってしょうがない。
まずもって大切なのは、こっちがどうするかという対処法である。
子供は無防備。
各自の責任のもと、各家庭で対処法を教えてあげることが大切である。