KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

危機管理心得

金曜の夕暮れ時、ミナミの名店「英ちゃん富久鮓」は、秋雨降り続くせいかお客もまばら。
老舗の趣に浸りつつ、雨音間近のカウンターにて男3人で飲む。

飲食店経営の社長が、幼馴染であるクニちゃんの昔話を始める。
クニちゃんは真面目な男である。
ただし、切れると豹変する。
一度切れて中学生の時にバイクで校庭を走り回り先生に襲いかかったという前歴がある。
仕事ぶりは真面目だが、対人関係で我慢の限界に達すると、しばしば境界の向こう側に行ってしまうのだ。
クニちゃんの変身譚は数あれど、木刀の話が彼を物語る上でうってつけだろう。

その夜もクニちゃんは安全運転していた。何しろ真面目な性分なのだ。
クニちゃんの安全運転に苛立ったのか、後ろの改造車が挑発し始めてくる。
つつくほど接近したかと思うと、横並びになる。
あまりにしつこい。
クニちゃんはそれでも自分のペースを守る。
ついには、改造車が前に出て、サイドブレーキをいきなり引いたのかブレーキランプなしで急停車する。
慌ててクニちゃんもブレーキを力いっぱい踏み込んだ。
その時点でクニちゃんは、すでに変身していた。

改造車からヤンキー風情が飛び出てクニちゃんに向ってくる。対するクニちゃんは、その千倍の勢いだ。
クニちゃんも飛び出した。クルマに常備する木刀を携えて。
クニちゃん曰く「めちゃくちゃしばいたった」という。
どれくらいしばいたんや、という飲食店社長の問い掛けに、クニちゃんは一言「あいつら死んだかもしれん」と答えた。
幸い、死者は出ず、クニちゃんはその後も、平穏真面目に仕事を続けることができた。

この他、法隆寺のバイク教習所でしつこく絡んできた不良を椅子で潰すようにどつきまわした話もあるが、ある種の悪漢成敗の類いなので、痛快な聞き心地がしないでもない。

しかし、ミナミの飲み屋で大暴れしたという話は、我が身に降りかかると想像するだけで背筋が凍る。

その昔、ミナミの飲み屋で若い連中がにらみ合いになると、やあやあ我こそは〜と、めいめいの出身中学をまず名乗りあったそうだ。
出身中学がその力量と勢力を表す指標として機能する。
強豪中学のアンカリング効果は測りし得ないものであったという。
ところが、その日のクニちゃんには馬耳東風。
相手が誰であろうと変身してしまうと手がつけられない。

強豪中学出身の血気盛んな連中に向って一切躊躇することなく、変身したクニちゃんが酒瓶を投げつけて、火蓋が切られた。
クニちゃんは見境いなく強いので互角に戦い続けるが、一方で、クニちゃんの連れが袋だたきにあった。
膝のサラを割られ、頭を傘の先で60箇所も「ぷちぷち」に刺されまくり、血が噴き出す惨状に至る。
その凄惨さで、みな平静に戻ったという。
真面目なクニちゃんの連れは、いい面の皮である。というより頭の皮が心配だ。

その連れのことを考える。
普通の店で、真面目な友人と、ちょっといい気分で飲んでいただけである。
日常の平和な一コマに身を置いて、すっかり寛いでいる。

ところが、事態の雲行きが徐々に怪しくなっていく。
しかし、それでも、まあまあととりなし、穏やかな解決に至ると信じ切っている。

それが、人の気も知らないで、一気に舞台が暗転、戦闘シーンに切り替わる。
飲み屋の酔客の一人でしかなかった自分の役回りが、突如、被暴行の生け贄という悲惨な役柄となってしまうのだ。

大阪ミナミでは、何があっても不思議ではない。
呼気荒く血を求め彷徨う輩は、いまどき少ないにしても、その潜在予備軍が徘徊していて、何かの拍子、何かの風の吹き回しで、他でもない自分が血祭りに上げられる立場にならないとも限らない。
夢にも思わなかった、という、予期せぬ出来事が起り得る。
そして、そんな目にたった一回巻き込まれるだけで、致命傷になりかねない。精神的には再起不能だろう。

その不憫な連れについて更に考える。
そのような不条理な出来事は、何も飲み屋だけで起こるわけではない、と思い至る。

仕事している活動の場も、酒瓶飛び交わないだけで、見えぬ何かが飛び交って、それがいつどこで自分に命中するか分かったものじゃない。
兆候が微かすぎて、意識を向ける前に、何かが急変する。起ってしまった後では、時すでに遅しという事態。

従業員が犯した不手際で、社長が過失を問われ損害賠償を求められる。
みないい人だと思っているが、知らぬは自分ばかりなり、最初から騙されている。
関わりもないし身に覚えもない事柄の責任者として矛先向けられ、周囲もそうだそうだと言い始める。
顧客の言われるままにした些細で他愛ない事務処理が、実は違法だとの咎を受ける。顧客は知らぬ存ぜぬの一点張り。
いつもどおり判子押しただけなのに、知らぬ間に犯罪行為の片棒かついだと責めを受ける。
不摂生な従業員がそれが理由で病気になっただけなのに、安全配慮義務違反を問われ損害賠償を払わされる。
とっても元気な従業員が鬱だと診断受け労災認定まで受け、なぜか自分が悪く言われ新聞に載る。

自分は安全地帯にいるはずだと思っているが、いつの間にか独りだけ境界の向こう側に押しやられる。
おいおい、おれ、悪くないやろ、と後ろを振り返るとみながそっぽを向く。

周囲に目を凝らし、自分の立場に過敏なくらい敏感でないといつ足払われるか分からない。
社会には、そういう恐ろしい一面がある。
悪気もないし、悪いことするつもりもなかったのに、れっきとした悪者の役柄にいつ何時陥れられるか分からないのだ。

雲行きの変化、相手の表情の変化、自分の立ち位置と境界線の把握、自分の役回りの認識、微かな気配も細大漏らさぬよう、常に何かを察知しつづけなければならない。
早く気付いて、先に手を打つ。
先手必勝だ。
誤解してはならない、酒瓶投げるのが先手必勝ではない。先手必勝とは、1mmでも展開を先に読む危機管理のことである。

そこらを頭に入れて、2軒目は、ミナミの名店「BAR村岡」。
雨の中、男三人連れ立って向かう。この日は都合4軒回ることになった。

追記
ちなみにクニちゃんは、北陸地方で特に名高いその飲食店社長の会社勤めの後、この日の会食のもう一人の参加者である不動産会社社長、かつての名高い4番スラッガーのもとで仕事し、その後、消息不明になったという。