KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

前後不覚

地下鉄本町駅の改札でのやりとりである。

ホームから改札を抜けようとしたおじさんが切符を持っていない。
駅員に説明している。

切符をなくした、と言っているのではない。
ぶらぶら歩いてたらこうなった。
電車に乗った覚えもなければ、改札を通った覚えもない。
迷い込んだだけなんだ。

そんな訳ないでしょ、どこから来たんですか、と駅員は経路を聞こうとする。

しかしそれでもおじさんは困ったように、地下街を歩いていただけなんやと首を傾げるばかりである。

忙しいのに構ってられない。駅員はおじさんを改札の外に追い出した。

相当に高度なテクである。
例えば大阪から乗って神戸で降り、神戸の改札で、歩いて迷い込んだ、と言えるだろうか。
一駅前から乗って切符を無くしたと言うことはできても、歩いてこうなったなんて、とても真顔で言える言葉ではない。

複雑に入り組んでいる地下鉄の本町駅である。もしかしたらあのおじさんは本当のことを言っているのだろうか。

しかし物理的に考えて、大阪の地下鉄で一般人が改札を入らずに改札に到るなんてあり得ないだろう。大阪港辺りの地上線路から地下線路を辿って本町の改札にたどりつくなんて、あり得ない。

となれば、おじさんは、自失していた、ということなのかもしれない。

突如訪れる「私はだれ、ここはどこ」現象は、日常影を潜めているだけで、突き詰めれば誰だって、その症状を抱えている。

普段は自失を意識しないだけで、人生自体を遠く振り返れば、あれ、何で私はいまここでこうしてるんだろう、どこに行くつもりだったんだっけ?という自失は、実は誰にでも思い当たることであるに違いない。

かつて買った「切符」のことも、通った「改札」のことも記憶のどこを探しても見つからない。駅員に対し適当に辻褄を合わせてきただけだ。
微かに、ほのぼのとしたような、遠足に出かける前の高揚感みたいな残骸を、少し思い出せるような気がするだけである。

あのおじさんはあの後、どこに向かったのだろう。
ポケットを探ると、地下鉄の切符が出てくる。
あれ、何でこんなものが?
今度は、例えば南海線堺東駅の改札で、地下鉄の切符を出し駅員に説明するのだ。
南海線なんか乗ってない、地下鉄に乗ったら、こうなった。

そして私たちも、長い目で見れば、実は、同じようなものなのである。

追記
平成24年4月25日、私は焼肉の金字塔、西成の大城園で上塩タン、上ハラミの両エース級の肉をたらふく味わい、デザートに冷麺を食べた。ビールはすすみ、マッコリのボトルも空いた。
今朝、平成24年5月2日、芦原橋で買った切符がスーツのポケットから出てきた。

その夜私は、イコカで降車しようとして改札で引っ掛った。
イコカで乗車の記録がない、そんなはずはない、と駅員と軽く押し問答したはしたけれど、面倒なので、乗車賃を支払った。

私は、切符を買ってそれで入場していたのだ。
全く記憶に無い。