KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

自殺するくらいなら

あまりにも自殺がありふれた事柄となっているので、今日は結婚記念日だが考え込んでしまう。

八方塞がりな心境となり、誰も彼もが恨めしく、なんとはなしに浮かんでいた自殺願望が、あるときぐっと形になり、自らを標的として勢いに乗じてやり遂げてしまう。
原状復帰が不可能となる選択である。(臓器一つでさえどれだけお金つぎ込んでも、人類の英知を結集してさえ二度と手に入れることはできない。)

自殺に至るまでにはプロセスがあるはずだ。
水中に沈められたボールが水面に真っ直ぐ向かうみたいに、自殺衝動が勢い良く浮上してくるわけではないだろう。

自殺に向かう情念のようなものが、ふつふつ小さな泡のように浮かんでは消え浮かんでは消えし、水質が、酸性度を増すように、徐々に徐々に変化して行く。
事態を任せるままにすれば、一振りでぶしゅーと泡が噴き出すような、そんな寸前の状態まで達する。

いよいよ行き詰まると視野が限りなく狭くなり、自殺するくらいなら死ぬ前にやりたかったことを全部済ませてからにしようとか、自殺するくらいなら赤っ恥かいてもどっか遠いところで第二の人生を始めてからにしようとか、そんな空想巡らせ心の水質をアルカリに戻すような余裕も失うのだろう。

年間3万人が自殺するこの国に予備軍はどれほどいるのかはかり知れない。

一つでも多く「これを失うくらいなら死んだ方がいい」というハッキリしたもの、つまり裏返せば、「これがあるうちは、まだまだ死なないぜ」というものを日頃から意識するようにすればずいぶん違ってくるのではないだろうか。

人によって様々だろうが、「今はたいへんだが、強いタイガース観つつ甲子園球場でビール飲める日が来る、そのビールはとっても美味いぜ」というイメージに五感で浸ったり、「ぐずぐず悩んでないで、初秋の北海道を旅行する計画たてよう、そっちがよっぽど大事だ」と開き直ったり、「インディジョーンズの次回作までは待たせてもらおう、話はそれからだ」とか、「同窓会がてら友達と連れ立って温泉街で羽目はずそう」とか、いくらだって際限なく、こちら側に留まる楽しみは見出せると思うのだ。

病気を苦にしてという理由の場合、とてもその心中を推し量ることはできないが、それ以外であれば、何とかなるだろうし、まだまだ楽しみもあるはずだ。

こう考えよう。
たいへんなことも多いけれど、その中で、楽しみの収集も兼ねた人生である。
限られた制限時間のなか、両手にこぼれるほどたっぷりと、楽しみを発見して集めまくる。
それが冥土の土産になる。
はい、やめ!のお迎え来ても、連れ出されるまで、とことん楽しみ尽すのだ。

とは言いつつも、死が発する、現世よりは安らかで静かに見える郷愁にいったん魅惑されると後はタイミングの問題でその考えを振り払うのは難しいのかもしれない。

情味ある日々を朗らか生きていけたら見向きもしない深淵に、平穏を錯覚するほど世知辛い人の世だということだろうか。

命に過ぎたる宝なし、許されるならまだまだ生きたいと望みながら死んでいった者の気持ちを少しでも想像できれば、眼の前の光に気付くことができると思うのだけれど。