KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

死んだら終わり

昨年10月にあった大阪の高校生の自殺が新聞に報じられている。
いわれのない借用書を書かされその返済を執拗に要求されたことが原因だという。

日本は世界6位の自殺大国だというが、自殺率を見れば、10万人あたり24人。
把握しやすい規模に換算すれば、1000人あたりで0.24人が自殺するということになる。
極小の数値であり、自殺自体がそこかしこで頻発している訳ではなく、まれなケースであると捉えることができる。

しかし、自殺が起こると、人は一瞬黙り込み、一体何があったのだと素に還る。
自殺には強烈な何かを感じさせるものがある。
生きているのが自然な状態なのに、 自ら自分を殺すというのは、言葉に詰まるくらいにショッキングなことなのだ。

しかし、知っておかなければならないが、1つの自殺が人の関心をひき注視を集めるのは、そのときだけのことだ。

身内には生涯に渡る悲しみを負わせ、本人の魂は死の間際の異なる時間軸に留め置かれ臨死の恐怖に慄然とし続けているかもしれず、そしてその一方、関係者であっても他人は、あっさりとそんなこともあったねという程度で忘れてしまい、うまいものを食い、コメディをみて笑い転げ、デートの前の化粧に余念がなく、過ぎ去った死者のことなど知ったことではない。

悲しみに沈む人があったとしても、普段は、夕食の準備を考えたり、月末の支払に苦慮したり、明日の天気の心配をしたり、と死者のことを四六時中思う訳では決してない。
本人のことを想う、最大の存在は、もう消えてなくなったのだ。

関係者は、 その死を胸に刻み決して無駄にせぬように、とお定まりで語るが、都合よく利用されることはあっても死が本当の意味で有用だったことなどない。
生の力には遠く及ばぬ。
死人に一体何ができるというのだ。
死は何も生み出さない、無なのである。
死を悼むだけでなく、胸が張り裂けそうでも、無駄死にだと、厳しく咎める見識があるべきだ。
死に誘う憐憫を引っ叩かねばならない。

自ら死んでしまっては、永遠の完敗だ。
消えてしまった後、もう一切、登場する幕間はないのである。
どんな楽しいシーンだろうと、どんな幸福な時間だろうと、もうお呼びではないのだ。
死んだら終わりなのである。何と悔しいことだろう。

自分を哀れんではいけない。
自己憐憫は死神だ。
何のこれしき、笑い飛ばし寄せ付けてはならない。
恐怖に陥れられ、勝利は難しいにしても、死んでたまるか、負けないよう踏ん張り、一矢報いる手だてを考えださなければならない。

もし周囲に自殺みたいな事を考える人間がいたら、死の甘美な幻影を暴き、つまらないことは考えるな、恥も外聞もない、まずはゆっくり休むことだと、助言してあげることだ。
さんざん寝て過ごせばそのうちシャッキとしてくる、その時、もっといい解決策が浮かぶ、果報は寝て待て、だ。

生きている間は、ちゃんと生きる。それだけのことである。