KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

過去の栄光化

その人は、50歳を越えてなお、過去の栄光で、周囲を射る。
そこそこの国立大学を卒業したことがプライドの根幹を為している。

そんな程度が栄光か、と訝しむ向きもあるだろうが、要は主観の問題であり、ミス日本であろうがミスJR環状線であろうが、本人がそれを凄い、あんたら頭が高いと思っていれば、結果生じる現象(相手を下に見る)は同じなので、栄光なのである。

栄光を放射させる人は、不本意な現在を日々やり過ごしている。
なんで私が、こんな所でこんなことをしているんだ、私はこの程度の人間ではない。
そう思ってバネにするなら向上心だが、周囲の人間を軽んじ小馬鹿にし、かつての優越感の残り香を味わおうとする。
あんたらアホか、わしは国立大学出とるねん。
この見下す感じがたまらない。とめられないやめられない。

だから、たかだか私立大学を出た程度の、しかもしょうもない資格業で仕事している私など、哀れむべき対象だ。
その哀れむべき対象が、自主独立で仕事し、おまけに少し稼いでいるとなると、我慢ならない。
これはもう、我慢ならない。

こいつはアホだという歌を、節回しを変え、あちらこちらで、何度も何度も一生歌う。
あいつの嫁さん出べそ、せがれはろくでなし、提灯持ちのコメツキバッタ、気息奄々のコモディティ稼業、などといった痛くも痒くもない、ピント外れな戯言の数々が哀切な曲調とともに歌われる。

歌っても歌っても何も変わらない。
今日と同じ不本意な毎日が続くだけ。
本人が気の毒なだけだ。

このような現象を過去の「栄光化」と呼ぼう。
あの人、栄光化しちゃったね、という風に使う。

学校だけでなく、在籍する会社や付き合うグループといった属性を、何か本質的なもののように信じて、栄光化する人が後を絶たない。

大切な心構えとして、過去の「栄光化」を慎むだけでなく、将来、「栄光化」を目指すような動機自体にも意識的になれれば、過ちは格段に減るだろう。

例えば、この学校に入れば褒められる、この会社に入れば凄いと認められる、この資格を取れば女性にもてる、そんな他人志向的な動機に先導され、その後、空虚な枯れ野を駆け巡るだけの人がどれだけ多いことだろう。

栄光を目的としてはならない。
そんなものを目的にしても後が続かないのである。
第一、その程度の栄光もどきなど、讃えられることなど滅多にないと知らねばならない。
ほとんどが独りよがりなものであり、他人のおべんちゃらやらに浮かれている場合ではないし、まして、自らすすんでひけらかすなど、破廉恥なことである。

栄光など、本人の与り知らぬところでその足跡に誰かが付け足す尾ひれはひれのようなものであり、関心示す類いの対象ではない。

肝心の値打ちは、常にその場その場で発揮されるものである。
真価は生もの、現在形なのだ。
本質を見誤らないことである。