KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

風呂上がりに見た昭和的光景

市内を仕事で革靴履いて歩くのは、夜の2号線をアシックスで疾駆するのと訳が違う。
堺筋本町天満橋、天王寺、南森町、4カ所を南北方向に動くだけでも腰に重さを感じ、電車で席が空けばつい座ってしまう。
事務所に戻っても疲れが居座る。
であれば、ひととき湯に浸かろう。

ジョギングの際に見つけた西九条の銭湯大福屋に向かう。
入った時点ではガラガラだったが、ちょうど夕方、現場帰りのおじさん達が集まり、どんどん混み始める。
それでも、十分広々していて、おまけに清潔だ。
ゆったりと20分ほど過ごす。

外に出て、夕暮れの空をバックに乗降客で賑々しい西九条の駅高架に向かって歩く。
僅か冷気を含む風が吹き続ける。
湯上がりの体になんと気持ちいいことだろう。

ノスタルジックな昭和的光景をそのまま残す西九条界隈をぶらぶら歩く。
本当に一昔前に迷い込んだかのようだ。
湯に続いて、懐かしい郷愁に肩まで浸る。

しかし、人の往来が増えるごと、そんな悠長な面持ちの人間は私だけで、見渡せば周囲は剣呑であると気付く。
心くつろぐ夕刻の時間なのに何ともギスギス物騒な、油断ならないような雰囲気が漂う。

口角上げたマヌケ面で深く胸に吸い込み私が微睡んだ郷愁は幻だった。
眼前には、決して穏やかなばかりではないハードな現実が散文的に横たわっている。
郷愁などというものは実相の数々が時間にろ過され、いい具合にほんのり甘く発酵した内的な情感であって、どこか別の場所に実在しているわけではないのであった。

そうそう実際はそうなのだ。

夏祭りの余韻や、風呂上がりのスイカ、路地でした花火、こたつの蜜柑、石油ストーブの灯油の匂いなど、私が幼少の時を過ごした生野にも甘味含んだ思い出がたくさんあるが、よくよく目を凝らせば、不意に出現する暴漢や、突如姿を消した優しい猫のおばちゃん、頻発するボヤ騒ぎ、徘徊するごろつき、身がすくむような暴力事件、銭湯の湯船に浮かぶ幼児、物陰に潜みカツアゲの機会を窺う上級生、いくらでも空恐ろしい記憶が私一個の中ですら芋づる式に蘇ってくる。
時代全体で眺めれば今より遥かに険しい暴力に取り巻かれていただろうと容易に想像できる。

今の日本はかつてより遥かに安全、治安がいい。
君たちがたまに目にして身構える西宮の不良少年なんて井の中の蛙、カワイイかえるくんである。
かつては、中学生が広域に渡って抗争し、その武勲で大人になってからも格付けされるという時代だったのだ。
隣町からいつ悪漢が襲来してくるか分からない。
子供っぽく暢気に振る舞って平穏に過ごすなどありえなかったのである。
地域によるのかもしれないけれど。