KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

私自身が「縁なき衆生は度し難し」となった苦い回想

定番にもいろいろあるが、焼肉食べるなら西成の大城園、ふぐなら生野のあじ平、寿司は明石の大和がいい。
子がごく小さい頃はよく明石へ通った。
西成、生野と違い、明石にはお城跡に立地するどでかい県立公園がある。

公園の池でスワンボートを家族で漕ぎ、芝生で野球し、ママが一番鋭い打球を飛ばし、長い滑り台で飽きるまで滑走し、お腹ぺこぺこになったところで、大和へお邪魔しわっさわっさと寿司を頬張る。

ネタもさることながら一流処で腕を磨いた大将の技術がなんといっても素晴らしい。
明石だから当然にタコは絶品で、白身のちり寿司もたまらない、数え上げればきりがない。
何でもかんでも、いやはや美味い。
ずぼら巻き、はかた巻きを土産に持って帰り、お家で小腹までも埋め、大満足スヤスヤと眠るのだ。

もちろん、明石なので大和以外でも魚の棚で買い物したり、名店キラ星のごとくある玉子焼きも楽しめる。
このように寿司の大和をはじめ素晴らしいこと尽しの明石だが、一つだけ苦い思い出がある。

公園の滑り台で子を遊ばせていた。
他人などどこふく風という二男と違って、長男はサルッ気丸出しの好戦的気質を有し同じ年頃の子がいれば、まずは砂をかけキッキキッキと威嚇する。
今でこそ周囲の心情を汲み推察できる男風情が備わったけれど、かつてはそのような未開の精神を奔出する悪太郎であったのだ。
滑り台だろうが、サーカスだろうが列の順番など守るはずなく、誰かを押したりカラダをぶつけたり時には猫だましみたいな手を使い悶着の連鎖をかいくぐりいつの間にやら先頭に立つ。

怖いお兄さん風情のパパでも居合わせたら事であると決まってヒヤヒヤハラハラするのだが、幸いこれまで直接苦情されたことはなかった。
しかし、明石では違った。
そこに集うママさんたちが、見逃してくれなかった。

「なに、あれ、やあねえ~」といったようなことを眉ひそめ強い播磨弁で聞こえよがしに言い募り始めたのだ。
当然に、そばにいるはずの親の存在を意識した上でのことである。

ネチネチしたくどい言い回しがイチイチ感情に突き刺さり、これはもう腹立たしいのであるが、こちらに非がある。
状況判断が難しい。
ともかく忍法しらんぷりを決め込み、どこまでも平然と空気読まない親に徹する。

解決を一旦保留すると、責任の主体である立場を放棄するような思考に侵蝕されてゆく。
状況を正当化するための自分本位な詭弁が沸き出し渦巻く。

大の大人が、子供のすることで目くじらたてるなど、この辺りの人間はなんて狭量なのだ。
滑り台で横入りしようが、1つ順番がずれるだけではないか。
少しくらい押したって、それがどうしたのだ、減るもんでもなし。
ここは有象無象集まる公衆の場、公園なのだ、その程度不届きな子がいて、一体全体驚くようなことなのか。
気に入らないことがある度におかんむりになるなど世知辛い地域だ、雨降っても風吹いてもグチグチ言うのだろうか、呆れるね。
こんなのが家にいるなんて亭主は余程たいへんだろう。

だんだん、そのママさんらがとても醜悪な鬼婆に見えてくる。
鬼畜が我が子を実況中継するように逐一罵っている、そのようにしか見えない、聞こえない。
この時点で、こちらに非があるといった観念は限りなく薄まり曖昧模糊、事態の是非について判断する客観的な視点など消え去っている。

我が子を助けないといけない。
父性が目覚める。
「ちょっと、あんたら、寄ってたかって一体何なんだ」と強く詰め寄った。
そして、「おばちゃんらに喰い殺されるぞ」と我が子を抱きかかえ、「おー怖っ、おー怖っ」と怯えの楽章を格調高く歌い上げながら舞台袖に下がったのであった。

当のママさんらは、素っ頓狂な顔して立ち尽くしていた。
我が子の悪ガキぶりを省みることなく、あまつさえ逆ギレまでしておばちゃん呼ばわりしたハゲの異人の姿は鮮烈に残ったであろう。

常識的に考えれば、いやー、すんません、と愛想良くへこへこ振る舞い、子を引きずって退散する、もしくは、ポーズであっても、せめて、いけませんよと我が子を叱る。
いくらおばさんらが、悪し様口を尖らせていようが、そうするのが、穏当な対応だったのだろう。

おばさんらの難詰に先んじて問題となっていたのは、我が子の愚行であった。
状況を解決、少なくとも改善するには、バカ猿の行動に着眼しそれにアプローチするのが第一手であることはサルにでも分かるようなことだ。
そして、その対処を終えれば、ママさんらの非難も残響はあっても自ずと鳴り止む。

映画でシャーロック・ホームズがするみたいにそのように素早く先読みできていれば、丸く収める道筋をたどれたのかもしれない。
そうすれば、私は自らの品性欠いたろくでもない言い回しで傷つくこともなかった。(違うか。)

感情がささくれると、それほど人は愚かになるということである。
弾むように躍動する自由な発想は枯渇し、思考は奥行きを失い、全体が見えず、ささくれの直接の原因だけに近視眼囚われ、感情によって抗しようとしてしまう。
後は泥仕合となるだけのこと。
もはや道理の出る幕ではなくなってしまう。

そして、抜かりなく、逆の立場からも考えておこう。
公園に見慣れぬ悪ガキがいたとして、聞こえよがし感情に訴える戦法は事態の悪化を招きかねず穏便ではない。
少しくらいは柔和に、問題を指摘し改善をそっと促すよう声かける程度がちょうどいいのかもしれない。

そこでもし相手が、「うちの子の何が問題なのだ、そんな程度は誰でもすることだろ、普段はとてもいい子なんだ、今日は物珍しさではしゃいでいるだけじゃないか、いちいち気にするなとあんたのこせがれに言えばいい、たかが子どものすることにムキになるなら公園でなど遊ばせなければいいではないか、うちの町では、そんなことでとやかく言う親などいない」といった、傍観者的な屁理屈を並べ立ててきたらどうすればいいだろう。

責任者はあんただろっ、と言い返しても仕方ない。
責任問われるようなことか、とかわされるか、言い合いになるだけである。

そもそものはじめから、進言自体しないほうがいいのである。
相手は身内でもなければ仲間でもない。
余計な世話やく深情けは徒で返されるのがいまや世界標準となった。
  
危害加えられたのであれば話は別だが、ちょっと迷惑こうむった程度なら、ほなお先、とさっさとそこを離れるにしくはない。
縁なき衆生は度し難し。
責任の所在に迫ることなくうやむやしに、足元にある因果の元栓すら自覚できない愚鈍は必ず干からび自滅するのである。
天下の回りものは何もお金に限った話ではない。
悔い改め、自戒の言葉としたい。
平身低頭傾聴はしないにしても、どんな場合であれ汲むべき何かは常に存在すると知っておいた方がいい。