KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

紅白歌合戦よりクジラ対シャチ

甲子園口ともなると、電車を降りる顔ぶれの身なりは相当にいい。
老いも若きもこざっぱりとそこそこ値の張るような装いである。
そんな中、一人作業ジャージでほっつき歩く私は、そのジャージがいくら一流スポーツブランドのアディダスであることを考慮に入れたところで、その安っぽい風をみればとてもまともな定職に従事している男には見えないだろう。
武庫川の堤防にでもねぐらがあるのでは、そう思われても仕方ないレベルかもしれない。
もちろん顧客先ではまるで甲子園口の住人のようにきちんとした格好をするのだけれど。

外見や他人の評価が気になってならない青春の日々であれば、こんな軽んじられるような、もっと言えば蔑まれるかもしれないような格好でおおっぴら往来を行くなんてことは耐えられなかっただろう。

実際、20代の頃は着る服にお金をかけていたし、髪形だって、体型だって、いまよりはるかに気を使っていた。
歩きつつ、町中のショーウィンドウに映る我が身を横目確認するということも怠らなかった。

今ではどこからどんな視線の刃が降ってこようが気にならない。
見られても残るのは、特定不能な何らかの影だけだと達観している。
わたし個人に突き刺さるものは何もない。
心頭滅却すれば視線もまた涼し、である。

それに、そもそもが誰もほとんど見ていないのだ。
人のことなど構ってなどいられない。
みな自分のことで大変なのである。

特にこの世知辛いご時世、そこら出くわす個々人のことごとくが、暮らしの細部に迫れば迫るほどなんとも切ない、複合的な苦境が連続する、鬱蒼とした無限の薄暗がりに封じ込められているかのようだ。

電車の中だけでなく、牛丼屋、公園のベンチ、そこかしこ、およそ公衆の面々に触れることのできる場はどこでも、草臥れ果てたような縮こまって窮屈な人相に溢れ返っている。

どこにも元気な息吹が見出せない。
元気な素が枯渇する国の様相を呈している。
ちょっとは元気なエキスを求めて、紅白に韓流など呼べばいいのに、今年は一切出場がない。
紅白に、PSYも少女時代も2PMも出ない。

今や芸能娯楽の世界では日韓比較など成り立ちようがない。
あちらはずらりと超アジア級だ。
翻ってこちらは、どうも尻すぼみ、迫力も覇気も面白みも技術にも欠けるちんちくりんな辺境のさびれ具合を醸す。

大晦日、家族でつつましく鍋を囲み、みなで紅白を見る。
少女時代がかっこよく踊り、KARAで賑やかさが増し、2PMは切れ味鋭く迫力満点、東方神起でこっちにまで力がこもる、そして、とりはPSYの江南スタイルで大団円。
一年の疲れが癒え、新しい年をぐっと見据え皆でぶつかって行こうという連帯感と気力が生まれる。

しかし、残念ながらそんな意気上がる紅白をみることはできない。
であれば、場末のさびれた出し物みたいな歌合戦みて、年越しのかけがえのない時間を無駄にすることはない。

今年の年末、家族で揃ってクジラ対シャチを観るというのは、どうだろうか。

先日、仕事しつつNHKで放映されたクジラ対シャチを横目で見て、生き物という存在の不思議さに身震いした。
ガメラゴジラなんて子供騙しでアホらしい、クジラ対シャチこそ生命の真実を垣間見せる。

遠くアリューシャンの海でシャチから我が子を必死で守り生き抜こうとするコククジラのガッツと知性、行き合った仲間と行動をともにするザトウクジラの群れの団結力。
種類が違うのにシャチに襲われるコククジラの子を助けんと、シャチの群れに挑み掛かるザトウクジラ一座のど迫力。

対するシャチも、クジラ同様群れで行動し、クジラを仕留めようと戦略研ぎ澄ます。
遊びではない。こっちも子に食わさないとならない。
クジラを捕らえると、近くを通りかかるシャチの群れにも声をかけ、戦果を分ける。
異なる群れ同士集い交流し、狩りの戦略について情報を交換する。

彼らはサルより余程人間らしく、下手すればそこらの人間もどきよりはるかに人間的だ。
人の内に宿っているはずの、熱い炎のようなものを喚起してくれる。
達成されるべき生命の凄み、というものを感じずにはいられない。

家族でクジラ対シャチを観る方が韓流出ない紅白みるより、よほどいい。
その方が、心のうち長く響く何かが残るはずである。

例年通り、12月、これはもうハードだ。
朝っぱらから仕事してしかも折々土日も費やす。
時給換算すれば単価800円?にもならないような、なんて理不尽な仕事だとお悔やみされることもある。

しかしやってる本人はいたって幸福だ。
クジラが子を伴いはるか5,000km先のアリューシャンの海を目指すみたいに、そこに進んで行く加速感は得も言われぬ心地よさを生む。
この小気味よさは他には何もいらないという濃密さで、数百円の時給に換算されるような薄っぺらなものではない。
そして、子クジラ君たちにも、何かが伝わり残るなら更に痛快。
この感覚が、羅針盤となる。