KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

中学受験を振り返って(入試って)

中学入試終了から1カ月以上が経過した。
長男の友人らの悲喜こもごもの結果も数々聞こえてくる。
あの受験は何だったのか、忘却の彼方となる前に、そろそろ簡単に振り返っておいてもいい時期かもしれない。

受験勉強や学歴といった話になると、近視眼的な損益分岐で是非を問うような思慮浅い切り口で語られるケースが多いようだ。
どっちが得か損かといった空論を喧喧諤諤応酬し仕舞にはつかみ合いの喧嘩にまで至るというやりとりからは数歩離れよう。

それ自体が期末ごとに得か損かに直結するといった損益計算の俎上ではなく、どちらかと言えば、全体的な資源のなかの一要素として焦点当て、貸借対照表の、例えば土地や家屋といった固定資産的な性質で捉えた方が本質が垣間見えるのではないだろうか。

もちろん、教育という人間形成に関わることをお金のメタファーで語ることに違和感を覚えなくもない。
しかし、そんな違和感を超えて、世はますますお金志向であると知っておかねばならない。
拝金主義者でなくとも、その論理に従属しなければ生きて行けないのである。
もはや人がお金を利用するのではなく、お金が人を使役するというところまで来ているのだ。

だから、学校に入るということでさえ経済活動の一環としてどのような意味があるのか把握しておかねばならず、目を背ける訳にはいかないということになる。

学校は固定資産である、そう考えると一面の真実が理解しやすくなる。
先輩や後輩や仲間らと接する場、ベース基地あるいはキャンプ場としての学校を土地、そこでテントはって勉強通じ基礎工事し自らを創り上げていく過程を家屋と例えることは一理あると思えるのである。

風評で暴落する場合もあるし、神話的要素でかさ上げされることもある。
見事な建造物が景観をさらに高めるということもあるし、中途で工事が頓挫し廃屋だけが残るだけということもある。
ひさしを貸して母屋を取られるということも起こり得る。

実際の不動産と違ってそれ自体では何ら価値を持たないが、自らの努力によっていくらでも価値を開発することができるという点で効用は不動産を上回るかもしれない。
その昔、田畑売っても子に勉強させるといった話があったのは、このような価値評価を直感または熟知する親がいたからだろう。
今なら田畑はちゃんと残しておいた方が子のためかもしれない。

それでも、長期的な収益は未知数だと百も承知の上で、それが原因で甚大な損失が生じるなど考え難いし、目覚ましい利益があるとも考え難いが、差引きプラスとなる蓋然性は高い、となれば、こと子供のこと、注力する方向に親の関心は動く。

誰もが家に住むように、誰しも、そのような「人的な不動産」の中に属し、「能力」を住処にする。
親としてそのように気を揉むからこそ、うちでもタフでハードに揉まれる環境を子にとっての益と考え、意図的に競争と訓練の場に放り込んできた。
古今東西数多くの社会で通過儀礼が課されてきたように、10歳そこそこで結構しんどい経験することは人間形成上、存外大事なことでもあるだろうし。

受験となれば限られた領地を争う戦に臨むようなものだから厳しくない訳がない。
たかが受験なので誇らしげに胸張るようなことでもないけれど、きっちり最後まで戦い抜いたのだから自信もって顔くらいは上げていい。

だから受験勉強するなんて詰め込み教育のモルモットになるだけだといったような、勉強を見下すような意見には耳を貸すことはない。
テレビもゲームも断ち、波のように押し寄せる不安と焦燥を押しのけ唇噛み締め前に前にと進んでいった年端いかない少年たちは、そこらの大人よりよっぽど立派だ。

第一、「詰め込み」という文言自体がネガティブな要素を含む否定語であって、あらかじめ意図された結論に導くための印象操作が入っている屁理屈だと大人であれば見抜くべきだろう。
意味付けの濃いワードが出てきたら、一旦再生を止めて、印象操作で先手主導権を取られていないか検証しなければならない。

人間の頭脳の広大無辺さを少しでも思い浮かべれば、そんな程度が「詰め込み」なのかと違和感覚え、次に相手の思惑を遠景に感じ取れば、そういった単純で直截な価値評価などに安易に組する訳がなく、もっと詰め込むべきではないかと正反対の観点についても十分吟味検討するはずなのである。

話を戻そう。
中学受験は、かように領土獲得争いの様相を呈し熾烈を極める。
不動産扱う宅建業には免許が必要だが、領土の争奪戦繰り広げる塾については行政の干渉などなく無免許で誰でもできる。
雨後のタケノコのごとくそこら中に塾ができるが、中学受験であれば実績が全てといくつかの評価定まった塾に通わせることが定石となる。

つづく