KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

中学受験を振り返って(塾の役割)

大手の塾ともなるとどこも月謝は高額だが信者がお布施召し上げられるようなものであり、親は何とかやりくりし食うや食わずであっても黙って払う。
信心を背景にしている点から、塾については宗教的要素もあると頭の隅に置いておいた方がいい。

それぞれ定評があっても、やり方は塾によって千差万別のようだ。
そもそも定評といっても一体誰がどのような根拠に基づいて言っているのか定かでない場合すらある。

つまり、知らぬは親ばかりなりで、数ある中には、いい加減な仕事する教師、教室、塾もあるということである。
よほどの慧眼でない限り、子供に見抜けるはずがない。
テキトーな発言をしても手を抜いた仕事や合目的でない教材やカリキュラムを組んでも、信者はそこを信じたい、だからそうそうは離れない。
信者のうち何人かが救われればいい、その総数が実績となる。

中学受験では、学校が意図するハードルのちょっと下くらいの得点で合否が分かれる。
学校の設定する合格ラインに強く引っ張られる形で正規分布がたわんで密集する。
ボーダーラインは団子レースの様相であり、分布を精査すれば、合格者の半数以上は合格ラインギリギリか少し上くらいの範囲で通ったと言っても過言ではないだろう。
合格者の大半は薄氷踏むような闘いを乗り切ったということになる。

通る子には二種類しかない。
余裕綽々で通ったごく一握りのグループとまるで二つに一つの時の運、抽選で当たりを引いたみたいな大多数のギリギリグループ。
惜しくも残念だったグループもそもそもが拮抗する力を有しているのでそれなりの落ち着く先を得ては行くけれどギリギリ瀬戸際というのは心労絶えないものである。

余裕しゃくしゃくの子というのは、どこでどんな指導を受けても何をやらせてもどっからでも浮上してくる、名付けてファーストクラスボーイズだ。
それに対して、ギリギリで通る子、エコノミークラスでぎゅうぎゅう詰めのボーイズについては、塾の指導のちょっとした適否がそのまま合否に影響与える重大な要素となる。

徒競走に参加する子に、高飛び込みや射的の練習をさせれば見当違いの度合いがはっきり分かるが受験勉強となると入試問題を実際に解いてみないことには、その適否は判別つかないものである。
そして、非合理なテキトーが塾の現場ではまかりとおり誰にも気づかれないといったことがあるにちがいないのである。

激務のなかマニュアルを超えた想いをのせて子供達に好作用を及ぼしてくれる先生に当たったかどうかで明暗は分かれるし、子供達が取り組む課題の適否を激務のなか日々判別し的確な指示を出し続けてくれる先生だったかどうかで合否は分かれだろう。

教育相談の場面で先生自体が教え子の顔と名前すら一致せず、母親が携帯の写メで示して、ああこの子ですかと話合わせるような、傍から見ればそれで一体何の実質ある助言ができるのだと首傾げるほど寒々しくシュールな対応であっても親はその一言一句を書き留めご利益にあやかろうとする。

親にとって冷静に事態を見極めることは簡単なことではない。
不本意な結果となっても、善良な信者は我が身を責めるのが常であり、塾の不作為や懈怠に矛先を向けることはない。

表向きには晴れやかな数字だけが喧伝され、その背後にあるエコノミーボーイズらの、無念の数々が拾い上げられ検証されることはない。
まして外部に漏れ聞こえることなど生じがたいだろう。
ファーストクラスボーイズを何人合格させたか、それは果たして、多数の親御さんが知りたいはずの「実績」と呼べるものなのだろうか。

蓋を開ければ、我が子はファーストクラスボーイズのバックダンサーまたはエキストラに過ぎず、特段注目されることもなく捨て置かれていたといった残酷な配役だったかもしれず、しかし蓋を開ける親は少ないので、真実は不可視のままだ。

子供達の願いに真摯向き合い、どのようなコミットを果たして、実現の助力をしたのか、もしくは、なぜ合格させることができなかったのか、何が足りなかったのか、そのあたりの個々個別のストーリーこそが誠実に語られるべきであろう。

今の状況では、本当に父兄が知りたい情報からほど遠い、誤謬ばかり生む広告がまかり通る、もっと言えば、一体どれだけの人数が不合格だったのかという肝心要な所にすら触れられない点で不誠実広告だとの誹り免れない悪徳商法のロジックを、良識ある塾を除いて業界全体でなぞり続けていると言えるのではないだろうか。

つづく