KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

正しい言葉遣いは人の為ならず

花冷えの朝、小腹が減ったので事務所を抜け駅前のパン屋に並ぶ。
ちょうどレジが二つ塞がっていて、その中間、左右を睨むようにYの字の要の位置に立って待つ。

右のレジが空く。
と、不意にどこからともなくおばさんがぬっと現れレジの前に立つ。
すがめたように細く不気味な目でおばさんがこちらを一瞥する。
足が竦んで抗議の声は出せない。

横入りを咎めたところで無駄なことだ。
兄ちゃん、あんたが変なとこに突っ立ってるからや。
そう言われれば返す言葉がない。

どこまでも小さな人間に徹する覚悟がないのであれば大阪のおばさん相手では口をつぐむしかない。

そして気付く。
おばさんはパンのトレイなど持っていない。
千円札を手にヒラヒラさせているだけであり、手ぶらである。

やがてパンを買ったもう一人のおばさんが遅れて現れた。
つまり「横入り」&「場所とり」のワンツーゴールを公然と眼の前で披露されたわけだ。
世界最強のツートップは大阪の地にいたのであった。
日本代表に招集するべきではないか。

レジのギャルは何も言わない。
私はレジに背を向けトレイに乗せたパンを商品棚に戻す。
もう二度とこのパン屋へは来ないだろう。
何もここらでパンを買うことはない。
日本屈指のパン屋がわんさ集まる地元で買えばいいだけのことである。
悔しくなんてない。

金毘羅うどんへ向かう。
途中、険のある顔した自転車少年らの一団とすれ違う。

一人が俯いて携帯を操作しながら向かってくる。
前方の私に気づくはずがない。
私もよける気がない。

仲間の一人が、ぶつかるっと声を上げ、携帯少年は慌ててハンドルを切ってそのままよろけて転倒した。
大笑いの声があがる。
アホか、ぼけ、カスやろ、おまえ死ね。
仲間が携帯少年を嘲笑する。
こけた少年も笑う。

彼らが携帯少年に向け発したアホボケカス死ねという語を反芻しつつそのままうどん屋へ向かう。
聞き慣れた慣用句である。
おはようやこんにちは、と同じ程度かそれ以上に耳に馴染んだ言葉である。
だからそのようなやりとりを前にしてもさして何か感じることもない。

何か麻痺しているのだろうか。
そもそもは酷く屈辱的な言葉であったはずだ。
それが言い習わされ使い古され、単に音として慣れ親しんだような語となる。
当初持っていたはずの痛めつけるような響きは跡形もない。
恋人同士があほボケ死ねカスと囁き合うようなシーンがあったとしても何ら違和感ない。

しかし、これはこの土地ならではの話であろう。
遠くから引っ越してきた同級生に初対面でアホボケカス死ねなど言おうものなら正体失って激情迸らせ大暴走するといったこともあるかもしれない。
こちらはちょっと親しみ込めたくらいの気持ちでも相手からすれば生涯忘れ得ぬほどの屈辱的な記憶として残る。
相手にはアホという語の上にまぶされた親しみは聴き取れない。
そのようなことが起こり得る。

何しろ「死ね」である。
音ではなく意味として耳にすれば、これ以上に酷く無思慮な言葉はあり得ない。
ローカルな言葉遣いはニュアンスに頼れる分だけ楽であり、しかしその分コミュニケーションと言うに値しない無内容な音の交換に過ぎないかもしれず、場面によっては修復し難い誤謬生む危うさと隣り合わせだ。

そして敷衍すれば、これは他者とのコミュニケーションだけでなく、自分自身との言葉のやりとりにおいてもあてはめて考えることができるのではないだろうか。

自分に対してする言葉遣いというものがある。
ローカルで閉じていて行き違いや誤訳の生じる余地はないはずだ。
何と言っても自分のことである。

では自明であるはずの自分に対し、なぜ言葉を用いる必要があるのだろう。
他者と言葉のやりとりが必要なことは分かる。
では自分との言葉のやりとりは、これは一体誰と誰がやりとりしているのだろう。

もしかしたら、閉じた世界というのは思い込みで、自分一個の中ですら幾層にも連なる世界が交錯し様々なコミュニケーションが交わされているのではないだろうか。
普段使いの言葉で馴れ馴れしく過ごす射程の一方で、何か違った語をこねまわさなければならないような、何かが見え隠れするような不分明な圏域が存在すると思えばそのような気がしてくる。

ああ疲れた、しんどい、めんどくさ、あのやろう、このやろう、最悪や、死んだ方がましやんけ、なんでおれだけ、、、
使い慣れた大雑把で意味薄弱で生気ない言葉が定着し、その語に先導されたような代り映えしない気分の中で安易に日常を過ごし、ますます停滞し丸まって過ごす。
それもまあ、ラクチンだし悪くはない。
でもちょっとどことなく気分が晴れない。
時折、いい映画など観たときなどに亀裂が入り、自らを高めようとするような強い言葉が啓示のように湧いて聞こえてくることがある。
耳を澄ませば、そのような言葉は常日頃から自らの中にもあったと気付く。

あまりに慣れっこになってしまって気付かないだけで、もしかしたら今の自分は誤った言葉遣いの中にあるのかもしれない、と時に内省することも必要だろう。
気分が優れないときというのは、ろくでもない言葉を自らに向け垂れ流しているだけなのかもしれない。

夕刻、家で英語の宿題する長男を連れ出しプールで泳ぐ。
同じレーンですれ違う長男を横目に水をかくことは幸福だ。

プールから上がると更衣室はスイミングスクールに通う子らがワイワイガヤガヤさんざめいている。
ちびっ子の誰かが誰かに言う。
「死ね」

そんな言葉は絶対に使わない方がいい。

帰途、長男と約束した通りTSUTAYAに寄ってDVDを借りる。
いい言葉とどれだけ出合えるだろうか楽しみだ。