KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

美容整形で人生バラ色?(その2)

先日家内に聞いたのだが、会社の後輩に我々の結婚式の写真を見せたことがあったらしい。
写真を見れば見るほど、受付の後輩らの口数はみるみる減っていったという。

何でこんな不細工な男で手を打ったのか。(私のこと、である)
結婚相手って、こんなチッポケなものなのか。(私のこと、である)
ショックを隠せない。(私を見て、である)
彼女たちの何かが打ち砕かれた。(私が何をした、のだ)

後輩らかすれば、新郎というのは、もっとカッコいいものであるべきなのだ。
ところがどうだ、写真に写ってヘラヘラ笑うこの男の不細工さといったらない。

その後輩らに言わねばならない。
私が醜男であることで困ったことなど何も生じていない。
家内以外の誰にも迷惑をかけていない。
つつがなく暮らし、何も問題はない。
子も二人授かった。

醜男は、醜男であることと引換えに何かを得ているとは考えられないだろうか。
福がある、とか。
それで章夫は我々の中で最も男前だったのに、職業人となるや否や、潔く男前を捨て去ったくらいなのである。

つまり、見かけなんて、怖気と悪寒走る程度なら、すぐに慣れてどうでも良くなるものであり、その証拠に、犬でも豚でも飼えば可愛く情が移る、であれば当然人間も同じはずだ。

女性の場合は男に比べ外見を問われる比重は確かに大きいだろうが、違和感覚えるほどのことさえなければ、もっと肝心な、
人としてのsomething elseの方が、遥かに重要なことだろう。

とても感じがいいとか、話が面白いとか、落ち着くとか、信頼できるとか、そういった目に見えない何かの方が、決定的な要素となる。
プログリーン飲んだり、プラセンタ注射などでいきいき元気保つくらいでちょうどいいのではないだろうか。
外見に執着することは的外れな堂々巡りの第一歩という気がしてならない。

帰途、43号線を通る。
西日を受け、仕事帰りの人の影が路面に長く伸びる。

スポーツカーと並走する。
日本車である。
自己主張の強いシルエットがなんと幼稚くさいのだ、こちらはそのように斜め上から見下し、おそらく向うは向うで、私が乗るクルマの散漫で陳腐な車体の野暮さを鼻で笑っている。
何の因果か梅香あたりから鳴尾まで連れ添うようにずっと一緒だ。

鳴尾の右折ラインで、私たちの前にアストンマーチンが割り込んできた。
柴犬の前に、マンチェスターテリアがすっくと現われたようなものである。
シルバーの光沢、車体の曲線が美しい。
日本車にはないテイストだ。
私の左側で信号待ちするスポーツカーの運転手も視線を奪われている。

立場や身分に応じて諸条件が規定され、人にはそれぞれに「適正なコード」というものが存在する。
それは、数学的に最適解を算出できる性質のものである。
昔の言葉で言うと、分相応という語になるだろうか。

計算によると、私はアストンマーチンとは無縁な人生だ。
それが分かっているので欲しいとすら思わない。
手に入れたいと思ってしまっても手の打ちようがない。

もし私程度の人間がええかっこしようと二千万円は下らないこのクルマを何とか算段して所有したとしたら、これは、「お笑い草」と形容するしかない愚行となる。

「適正なコード」を超えているので、維持すらアップアップで、生活全般ともそぐわないので、実用に堪えない。
最も必要となる「実用」を享受できないとなれば、そもそも何のためのクルマなのだというシュールな話になってしまう。

手が届くはずもないのに、遥か彼方の社会階級を必死で真似て、そこに到達しているように見せる衒示的消費はまわりまわって我が身を直撃する。
実際に懐がじんじん痛むはずだ。
しかも思ったほどには、お金をかけた割には、誰も見向きしやしない、ええかっこにならない。

そしてそのクルマに余程の魅力がない限り間もなく飽きが来て、つまらない見栄張らずその金を置いておけばどれだけ心強い援軍になったことだろう、なんてバカなことをしたんだと悔やんで悔やんで食事も喉を通らないほど落ち込むことになるに違いない。

どうってことないという範囲の圏外にまで漕ぎ出した後で、自分の船が大船ではなかった気付いて慄然とする。
この症状は、身の程知らず症候群として古くから広く知られており、デルフォイの神殿に刻まれた「汝、身の程を知れ」という警句は、これを戒めたものとして有名だ。

自らのコードを察する程度の知性がないと、こっ恥ずかしいというお笑い草だけでは済まず、精神衛生上も実際の懐具合でも暮らしに深刻なダメージが及ぶことになるのである。

ご用心ご用心。

アストンマーチンは恰好良いが、とても買えない。
では、自分の日本車を、手っ取り早くアストンマーチンみたいに整形するか?

自らの主要なテーマで一杯一杯である。
そんなバカなことを思案検討する余地はない。
十分満足行く走りだし、愛着もある。

帰宅し、PSYの新曲ジェントルマンをYoutubeで観る。
またもや素晴らしい。
あの江南スタイルの余韻を今作にもほどよく残したのは、彼の知性の為せる技だと感心する。
そして、どうみてもPSYは整形ではないだろう。
細い目だろうが二重だろうが、作品の素晴らしさは揺らがない。