KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

あきらめのついた人生終盤(その3)


おそらくツーリングは夜を徹して行われるであろう。
私は翌朝も明け方から仕事である。
挨拶もそこそこに夜9時を回ったところでその場を辞す。
門限の厳しい良家の子女みたいである。

事務所で着替えを済ませ軽装になって帰宅する。
一人になると仕事のことがあれやこれやと浮かんでくる。

職場は3つの種族で構成される。
成果を出す人、無難な人、そして残念な人の3種。

果実獲得する少数の成果人がフロントにいてそのバックヤードに大多数の無難人が控える。
その組織体に、成果も出さなければ無難でもないという、残念な人が寄生する。

組織の一員であるためのハードルは高くない。
無能であろうが、もの覚えが悪かろうが、向上心がなかろうが、同じ過ちを繰り返そうが、何か欠点があってもそうであると自覚がある限りはそれで構わない。
そもそもから有能な一部を除き人はみな大半はそのようなものなのである。

人は石垣、人は城、である。
人は助け合う。
無難な人々が互いを補い合って日々の業務をボチボチ遂行すれば組織は回る。

仕事柄、残念な人の標本に接する機会が多く、その度、組織の衰亡と破滅を招き寄せかねないこの諸悪の根源について考えさせられることになる。

残念な人というのはビン底の穴みたいな存在であり、職場のエネルギーがそこから漏れ出す。
または、靴下の穴みたいな存在でもあり、他所様にとてもお見せできないし、気になって仕方がないので職場の集中力が殺がれる。

そして、ここがもっとも頭が痛いところなのであるが、残念な人は自分がそのような穴ぼこになっているという自覚がない。
自覚さえあれば人畜無害な無難な人への繰上がりが容易なものを、全く分かってないので周囲は仕事以外に余計な気苦労を強いられることになる。

無難な人と残念な人の間には、深く険しい谷が横たわる。
人に備わっていて当たり前の要素が欠落しているので、無難な人になることさえ容易ではない。
残酷な音響とどろかせ、その谷あいを冷たい風が吹きすさぶ。

主観と客観、自己評価と他者評価に齟齬は付きものである。
100%の精度でその両者を統合することは不可能なことだろう。

しかしそれでも、目に見えない触角のようなレーダーが人には備わっていて、そこに注意を集め、他者評価の客観と自己評価の主観の世界を回路でつなぎ、交信しようとする。
その過程で、在り方を検証し、気付きを得て、必要が生じれば修正と改善を試みる。

そのような交流を、人同士で人知れずやっているのである。
それを人は古くから知性と呼んできた。

ところが残念な人は、触角が機能せず、交信の回路は断線したままとなっている。
ため池のように淀み混濁した自己像の中に住み留まる。

だから、やっていることはこの世の果てのお粗末さ、哀切覚えるほどであってもその自覚がなく、自らは孤立した自己洗脳の行き着く果て、万能感すら有する程に自分は結構なものだと錯誤している。
もちろん、指摘しても通じることがないので、何も変わらない。
新喜劇の芸人さんたちが後景でずっこけ続けるばかりとなる。

先日友達とミス米子の話となりたいへん盛り上がったが、ミス雇用となれば盛り下がるばかりとなる。

他の真面目な人に多大な迷惑をかけ心的ストレスを発生増幅させるだけなので、たとえ人生終盤に差し掛かったとしても、あきらめて見逃すという訳にはいかないだろう。


家に到着し風呂に入り長男の部屋に向かう。
インビクタス(負けざる者たち)という映画がいいぞと話しかける。

獄中生活を耐え抜いたマンデラ大統領の不屈の精神が映画の基調をなす。
その精神が、オールブラックスの猛攻を耐え凌ぎ一歩も引かないスプリングボクスの闘争心に体現され、そして黒人と白人を隔てることのない歓喜のうねりへと結実していく。

ぷるぷる心震え涙こぼれ出すような映画であり、間違いなく永く心に残って折りに触れこれら男達の姿から何度も学び直すことになるはずである。

夢中で話すが勉強の邪魔しただけのようであった。
長男にお休みのキスをしようとして押し返され、その力が大人顔負けの強さであり酔いが一瞬醒めた。

気を取り直して続いては二男の部屋。

塾の成績を褒め、あまりに良過ぎるので、それでは駄目だと諭し、人にはたくさん引き出しがあるのに一度きりの貴重な成長期に勉強にだけ過剰適応したら可能性の引き出しが塞がってしまう、勉強をいくらやり続けても偉い人にはなれない、ほどほどにしてラグビーや水泳の練習を増やそうと話し、でも成績がいいのはいいことだけどね、と二男にお休みのキスをしようとするが身をのけぞらされた。
これまた勉強のお邪魔虫となっただけのようであった。

すごすご退散し、ベッドに寝ころぶ。
この先、子らそれぞれが人生の主題を見つけ奮闘する過程で、数々の引き出しが開き思い掛けない力が次々と発露してゆく。
そのような様子を思い巡らせつつ、私にしてもまだまだこれから意外や意外という引き出しの中身に驚かされるような場面もあるのかもしれないと想像してみる。

そうであれば、いくつ命があっても足りないほど楽しみが目白押しの人生ではないか。
諦観など棺桶に入ってからでも遅くなさそうである。