KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

超低空飛行からの浮上


始発を待つ甲子園口のホーム。
いつも決まって車両の停車位置のはるか後方で手すりにもたれ新聞を読むおじいさんがいる。
風の当たりがいい場所なのか六甲山系を見渡せる景観がいいのか。

始発電車が近づくと停車位置の方まで歩いてくる。
そしていつも笑顔なのだ。

その表情に触れるとこっちまで気分がほぐれる。


私がTUMBLRで書いた話を見つけて大学の友人から近況知らせるメールが来る。
仕事も家庭も大変なようだ。

お互い20歳そこそこであった当時、日本はまだまだ安泰といった雰囲気が残っていた。
明るい前途を描き、お金持ちにもなれるし、妻子にも恵まれる、良き事が何でも実現するかのように思えたあの頃、我々は幸福のピークにあったのかもしれない。

いざ蓋が開いてみると何もかも話が違った。
会社は理不尽であり給料など大したことはなくどこへいつ飛ばされるか予見もできず生活続けるうちに妻は変貌し子供なんていつまでたってもやってくる気配がない。

幸福の絶頂は20歳で終わり、あとは超低空飛行の日々を耐えしのぐ。


TUMBLRには次のように書いたのだった。

「移動中メールで家人と意見が食い違い軽く口論になる。
こっちが是で相手が非、立場をそっくり入れ変えて見れば向こうが是でこちらが非。
やりとりを俯瞰すれば双方同じような趣旨のことを言っている。
それで気づいた。
うまくいかないような何事かの原因を身近にいる相手に投影しているだけで非とあげつらう本質が相手に実在している訳ではない。
同じ問題を共有しているからこそ、たまに生じる不本意感を連れ合いにぶつけることになる。
つまり夫婦のちょっとした言い合いを理知的に解釈すれば連帯の裏返しということではないか。
長年連れ添えば定番の口喧嘩がひとくさり揃う。
そのやりとりができるのは、連れ合いたった一人だけである」


それに対して友人は異論があったのだろう。

彼の奥方はまるでテレビのような人格だという。
実際、だらだらテレビ見て過ごす日常を送っているらしい。

ぺちゃくちゃ空虚なことをハイテンションでまくしたてているかと思えば、機嫌損ねた次の瞬間から舌鋒鋭く自らのことは一切合切棚に上げて彼の非を罵るようにあげつらう。(テレビのバラエティ番組と報道番組の影響だろう)
日常の行動も時折開陳する薄っぺらな価値観も着こなしもイベントが近づく頃合いの振る舞いもテレビの影響だと考えれば腑に落ちる。
(情報番組やドラマの影響だろう)

テレビ人間相手に問題の共有はもちろん連帯なんてありえないだろうさ、彼はそう言いたいのであろう。

我々は続けてテレビばかりみるような日常を過ごしたことがない。
自らの言葉で思考を編むことなど全くなく、テレビをなぞるだけの思考様式持つ人と一緒に暮らす手応えのなさを想像してみる。

遮蔽された世界で一人テレビの前にじっと座り込み、情報の源泉がほとんどテレビとなればマトリックスの仮想世界で眠り続けるのと同じではないか。

直面する困難や将来への不安と併せて、40代にして彼はテレビ人間という動かないのでやたらに重く感じる荷を背負って、かつて夢見た輝かしいことどもが褪せて崩れ去って行くのをじっと黙って見続けるしかない人生の黄昏、まさに苦境にあるのであった。


あまり調子にのるものではないと自省しつつ、しかし私だって20歳の幸福の高みからすれば、日々滑落し続け、思ったのとは違う人生を進んでいる。
子らが元気で明るく、それで少し紛れているだけであり、44歳のときにこのように息も絶え絶え仕事ばかりに追われる立場になるなんて想像もしなかった。

40代となれば何の心配事もなく悠々自適、美貌の妻と海外たずねあるき毎晩名産食べて白ワイン飲む、そのようであるはずであった。

いま、その願望を先延ばしし、50代になれば、と思いつつ毎日を踏ん張って過ごしている。
50代になれば60代に順送りし、70代ともなれば次の人生はきっと、と夢を別便に託すことになるのだろうか。

もしくは晩年となればちがった境地に至るのかもしれない。

20歳当時の青い夢の頭でも撫でながら、奮闘した自らを労い、ささやかな成果を心密か自賛し、子らが長じていればそれに勝るものはないと子育てのプロセスを何度も振り返り懐かしむ。

そしてひとり、静かな朝のホームの端っこで手すりにもたれかかりそびえる山々を笑顔で眺める。
深い満足感に浸りつつかつてを懐古するといった、香しいような残りの日々を過ごすのだろうか。


何故なのだろう。
はるか昔浮きに浮いた大学生の頃読んだレイモンドカーヴァーの「象」の主人公のことを思い出す。

中年の頃も過ぎた主人公は朝から晩まで働き通しであり、彼のもとには家族らからのお金の無心の声が絶えない。
主人公は幼い頃父親に肩車してもらった思い出をふと回想しつつも、その一方でお金の工面とやりくりに頭を悩ませる。

私の記憶は定かではないが、主人公が丸太か何かを担ぐ描写があった。(ような気がする)
そのずっしりくる重みに堪える主人公への共感がはるかな時間を超えて私の中にこみあがってくる。

何も私だけが持ち堪えている訳ではないのである。
2013年、夏休み取得の目論見がまさに夏の海の藻屑となった。
少しばかりショックなだけである。

今日は帰りに本屋に寄って「象」と再会しようと思う。