KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

刻一刻と秋が近づく


場の空気は人が作る。
大雨洪水警報が発令され外は四方から激しい雨が殴りつけるかのような大荒れ模様であったが、わしお耳鼻咽喉科の待合室はほのぼのとしたような穏やかさをたたえ、まさにどこ吹く風と幼児が遊び来院者がくつろいだ様子で雨露をしのぐ。

スタッフ一人一人がナチュラルに発する受け入れ感のようなものが行き渡っているからであろう、居心地がいい。

雨が小降りとなった。
母親に帰ろうと促され待ち合いで遊ぶ男児が手を止め、こちらを見る。
目が合う。
私のような強面にさえ幼児が親近感抱く空気が醸成される鷲尾耳鼻咽喉科であった。
にっこり微笑み、目でバイバイした。


病院の待ち合いが落ち着く、といったことは滅多にない。

なかには、スタッフの灰汁ある自我のようなものがしかるべき空気を乱し、そこに座ってるだけでなんとも落ち着かず、それだけではなく、切ないような、しょぼくれたような、過去の罪科が思い出され顔面が歪むかのような沈痛な面持ちとなりさっさと荷をまとめて退散したくなる場所もある。

その昔、子らの小学校の運動会を抜け出し、携帯電話を買い求めたことがあった。
対応してくれたギャルが、一体何なのだろうか、表面上は丁寧な接客ではあったが威丈高でこちらを小馬鹿にしたような様子が垣間見え、とても不快であった。

私に非があったのだろうか。
その携帯を所望する熱意と誠意が足らず、あるいは礼を失したのかもしれなかった。
しかしそれにしても、何が悲しくてそのようなギャルの仏頂面を耐えねばならないのだ。
席を立とうと息む気持ちを抑え、その場その時に携帯が必要であり、店員はそのギャルしかおらず、何がどう不快なのか説明もできずそんなことで文句を言うのもみっともないと思い自重した。

虫の居所が悪かろうが、相手がどこの誰であろうが、体調が思わしくなかろうが、目の前の相手を慮ってとてもナイスな対応ができる人がいる一方で、何をしようが不興を買うような人がいる。

様々な感情体験を通して内面化されていく知性の有無が、このような差を生むのであろう。

何とも不愉快な人がいたとすれば、腹を立てることはない。
その人は馬鹿なのだ、と思えば済む話であり、今度から近づかなければいいだけのことである。


いまやずいぶんと改善され、どこの携帯ショップも笑顔でニコニコ、懇切丁寧でとても感じよくなっており、今昔の感に堪えない。
しかしスタッフによっては、業務命令とフィードバックの圧迫感のもと無理に顔面ほころばせているのあろうというやらされ感が透けてみえ、むしろこちらが窮屈に感じる場合もなくはない。
さっさとその場を立ち去りたくなるのは、つっけんどんにされた場合と同じことである。

感じの良さというものは付け焼き刃で身に付くものではないのだろう。


「普通に生きていれば物忘れもするし、うっかり不義理もしてしまう、生まれつきのボンクラなのでそこを責められたら付き合いできません。これ以上関わりになれないので警察に相談します」
その昔、ある親方さんが反社会勢力に身を置く知人にそう言った。

最初は親切であったという。
あれこれ骨を折ってくれた。
しかしある時、金を無心された。
そうそういつも要求には応じられない。
渋り始めると、態度が徐々に変化してきた。

言葉尻の揚げ足をとり、つけ入る隙あればどんな些細なことでも声を荒げあげつらうようになってきた。
遠ざけたかったが、何をされるか分からない。

ふとしたきっかけで、もっと強力な背景持つ人物と知り合った。
力になってくれるという。

かの世界はその格で全てが決まる。
威勢のいいことを言ったところで、いくらかっこつけたところで、御印籠示されれば、黙るしかない。
いまや反社会勢力と交際する事業者は排除の対象となるだけであるが、かつて大阪の地ではバックに控える御印籠の強弱が全てだったという。

下っ端ほど素人相手にあこぎで理不尽、そしていざとなれば真っ先に長いものに巻かれる世界であると親方は知った。
そもそも下っ端はお金に困っているのだった。
衣食足りて礼節を知る、などはるか以前の状況にあると思えばすべての経緯に合点がいった。


ちょうど夏が終わり秋が訪れる頃合い、高倉健の「あなたへ」を観れば更に秋の趣きをしみじみと感じることができるだろう。

生まれ故郷の海で散骨してほしいという妻の遺言に従い、高倉健が富山から長崎平戸を目指す。
健さんの運転するワンボックスが緑深い山間を抜け海岸沿いを走り、日本の美しい風景とともに秋間近の空気が映像から漂ってくる。

目的地へ向かう時間に亡き妻との思い出の時間が交差し、随所でかつて妻がふいて鳴らした風鈴の残響が蘇る。
寡黙にハンドルを握る健さんの心情が伝わって来て、次第にこちらの涙腺がゆるんでゆく。

行く先々の風景と健さんが出会う人物らが強く印象に残り、連れ合いを亡くしたとしてもその後の時間を送るのに日本ほどふさわしい国はないと思てくる。
いい生き方をしたいと自然に思えるようになる名作である。

やはり高倉健という人物は、一俳優といった立場を超えて、大げさかもしれないが日本男子の精神的な統合の象徴とも言える程の偉大な存在と言えるだろう。

口上では説明しようのない良きもの、大切なものを体現する希有な人物である。
この存在感を継ぐ人物はそうそうは見当たらないが、もしかしたらイチローあたりの精神性が、将来そのようなかたちに具現化していくのではないだろうか。