KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

音楽の世話になりっ放し


月曜日午前4時。
クイーンのベストを流して出発。
Another One Bites the Dustを繰り返し聞きつつ、業務開始のとば口を勢いよく突っ走る。
音楽によってほどよく血流が増してくる。


音楽については門外漢だ。
かつてちょっと意気がってクラシックのコンサートに家内を誘ったことがあったが、途中で頓挫した。
フンフン頷き聴き入る周囲を見渡しつつ、思ったものだ。
一体、何がいいのだろう。
音についてのセンスを欠いていること、絶対鈍感である自分を再発見した瞬間であった。


それでも、音楽は欠かせない。

明け方の滑り出し、稼働前の静止摩擦係数を激減させる上で音楽は不可欠であるし、業務中であればピアノ音楽でも流して逸る気持ちを鎮め、もしくは、大急ぎ出力全開で仕事に没入する際のペースメークにおいても音楽に寄ることろが大である。

音楽には不案内のまま、その恩恵には預かっているのであった。


ホモ=サピエンスは音楽を有し、ネアンデルタール人はそれを持たなかった。
音楽を嗜まないネアンデルタール人においては、社会的コミュニケーションがホモ=サピエンスほどには機能せず、だからこそ滅びたのだという説もある。

どちらかと言えば私は変異出現してしまった原人タイプなのかもしれない。

先日蕎麦屋に入ったところ、マッチの曲が流れていた。
音楽に素養はないが音楽のことを考え、音に注意する感覚になっていたのだろう。
生まれてはじめてマッチを注意深く聴いた。
耳馴染んだ曲であったが、耳を澄ませば、斬新で意外性に富み、感情に訴える程度の起伏と心地よい反復があって十分に楽しい。
歌手としてのマッチの存在は今や消えてしまったも同然だけれど、その音楽は、ハイティーンであった我々に微かであれその足跡を残しているのであった。


外回りを終え、次の仕事にかかる間隙を縫っていま日記を書いている。
昨日、「戦場のピアニスト」を観たいせいか、いい音楽が聴きたくなって真っ先に思い浮かんだマイケル・ナイマンを流している。
戦場のピアニストとマイケル・ナイマンは関係ないけれど、ピアノ・レッスンやガタカの音楽と聞けば、ああ、あれはいいねえ、と君たちも思い出すだろう。

もしかしてだけど、音楽は我々に先駆して存在しているものなのではないだろうか。

言葉などで意味として分節される以前の何か奥ゆかしい概念のようなものが、音以前の形で先に存在していて、我々は何だかよく解らないが朧げに予感だけしていて、稀に天才がそれを感知し我々にも感じることができるよう音として近似し再現してくれる。

その伝でいけば、ピーター・グリーナウェイの映画を音で縁取るマイケル・ナイマンが、これはもう筆舌に尽せないほど凄いというのは当り前のことだろう。

だからマイケル・ナイマンを聴けば、その音が我々の認知をアクチべートし、何気ない日常の1シーン1シーンが味わいを増し、そしてさらには、何か深い共感のようなもので包容される我が身一般を実感でき何であれまあいいさ、といった清々しい諦念に浸れるのだろう。