KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

楽勝やでと息子に言おう


一件キャンセルが入り棚からぼたもち金曜の午後早くに時間が余る。
あまり早く帰宅しても仕方ない、ちょうど疲労のピークであったし、みずきの湯に向かった。

炭酸泉のなか無重力に浮かぶかのように寝そべる。
両腕が湯に浮かび腰も肩もひととき役割から解放される。
あまりに疲れていたのだろうか、疲労の泡のようなものが深奥から表出してきてそれが完全に抜け切るまでは全く動けず待合のソファで脱力のまま過ごした。


帰宅しさっさと寝床に直行し横になる。
このところ深い考えもなし三階の北向きの部屋にて北枕で寝ている。
縁起悪いとの言い伝えが気にかからないこともないけれど我が家のなかにおいて最も落ち着いて休む事のできるポジションニングをすればそのようになるので仕方ない。
北枕なんてどうってことない、むしろかなりいいという結論にそのうち至るのかもしれない。

そのようにうつらうつら過ごしながらもその夜はなかなか寝付けず、いつの間にやら塾から二男が戻って寝床に入った様子が聞こえてくる。
しばらくしてふと思い立ち、二男のベッドにもぐりこみ、寝息聴きつつうつぶせ添い寝してみた。
狭く窮屈になっただけで安眠は遠のく。

自分の寝床へ戻ろうと思ったその瞬間、二男が寝返りをうち手が私の背中に置かれた。
癒えるような温かみを感じ、しばし感傷にふける。

目から鱗とはこのことだ。
子らが元気で、すくすくと育っている。
これこそが幸福なのだと過去を駆け足反芻してウェットな情緒をひとしきり味わい、ひとり角ハイボールで飲み直し映画を観る。


映画「ライフイズビューティフル」において、父グイドは息子ジョズエに対し果敢なほど明るく陽気に振る舞い続ける。
暴力が隣り合わせどころか死が足下に迫るユダヤ人収容所という場に追いやられた絶望を、前に踏み出してゆくような快活さでグイドが終始はねのけ、息子を精神的な次元で守り抜くのだった。

ここでは人がボタンにされ石けんにされかまどで焼かれるの、と不安げに問う息子に対し、父は大げさに笑って身振り手振り全力で答える。
フランチェスコで顔を洗ってそれがちぎれて外れたりするというのか、そんなバカな話を信じたのか、かまどで焼くのは人間じゃなく薪だよ。

凄惨さ極まる場を、全く異なる世界、息子にとって楽しく面白みさえある世界に見えるようグイドは言葉と態度によって窮状を解体しその意味を変換し続けた。
捕らえられもう万事休すとなった最後の最後まで。

ライフイズビューティフルというタイトルが端的すぎて何度でも泣けてくる。


ちょうど「切腹」という古い日本映画を先日観たばかりであった。
仲代達矢を鑑賞するだけでも値打ちあり、日本語の格調と美しさを再認識でき、その他諸々完成度極まる名作である。

江戸時代徳川の治世、犠牲の精神を鼓舞し封建的な秩序を生み出すために機能してきた武士道という思想が用をなくし形骸化していく。
個々の武士にとっては闇雲にハードルが高いだけの無用の長物みたいな存在となっていく武士道であったが、しかし、誰もそこから逃れられず役目を終えた思想に絶対的に縛られる。
武士の面目を声高に宣い、しかしその一方でそれに怯懦してゆく自己矛盾の息苦しさと用済みとなっていく役割の悲哀が体感できる。

仲代達矢丹波哲郎が果たし合いの場に向かうシーンはゾクゾクするほどの見応えであり必見だ。
映画として面白いだけでなく現在進行の時間と並べ比較し考えるところ多々あって中身濃密である。


安直で表層的な要素だけがお手軽に伝わるのだろうか、武士道気取りで日頃ええかっこ言って威勢はいいものの実のところ窮地ではどうなのだと底の浅さが透けて見えるなんちゃって侍もどきがお手軽に跋扈する暖衣飽食の日本であるが、冷静に考えれば、武士道の本質とは為政者側が統治のために強いた思想であり、泰平の世となれば体現するなど奇跡のように難しい理想論であるとごくあっさり理解できるのではないだろうか。

実現不可能な域の精神性に雰囲気だけで感染し、思慮浅く机上の勇ましさ振りかざす輩をみれば軽侮含みの視線のもと、その人なりの鬱屈や精神的な課題、個人的な不全感などに思いを馳せた方が話が早い。

どのみちフィクションであれ、「ライフイズビューティフル」の方にこそ、男子が範とし参考にすべき実質が多々備わっているように思えた。
仲代達矢が「切腹」で表現した精神性は、これはもう今の日本人に達せられるものではなく目指すべきものでもないだろう。
そのような時代がかつて存在し、それはもう大変であったのだと厳粛な思いとなるばかりである。